6月24日礼拝説教 「礼拝に生きる」

              2012年6月24日

聖書=マタイによる福音書18章18~35節

礼拝に生きる

 

 本日は礼拝を含めての「一日修養会」です。テーマは「礼拝について」です。改革派教会の創立20周年記念宣言では「教会の生命は礼拝にある」と言います。では「生命」と言える礼拝を、私たちは守っているでしょうか。礼拝をどのように考え、理解しているでしょうか。

 礼拝は第1に、キリストにお会いする時です。十字架で殺され墓に葬られた主イエスが、日曜日の朝、よみがえりました。ユダヤ人をおびえて家の中に閉じこもっていた弟子たちに、主御自身が現れて「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ福音書20:19)と言われました。ここにキリスト教礼拝の原型がある。心挫かれて悲しみの中で集まる弟子たちの中に、主が臨在して祝福を与えてくださる。これが礼拝です。

 これには、主イエスが前もって語られた約束があります。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)。このみ言葉こそ、礼拝を考える時の基本です。人数が多いかどうかではなく、二人三人がキリストの名によって集まるところに、キリストが臨在してくださいます。私たちはこのキリストの臨在に触れるために集まるのです。

 教会はここに成立する。時折、大教会でなければ教会でないような考え方をする人がいる。教会を何と考えているのか。教会はキリストの血によって贖われた者たちの集まりであり、そこはキリストがいますところです。大きかろうが、小さかろうが、キリストが臨在しておられるのです。教会を大小で測ってはならない。このことをしっかり胸に刻んでほしい。

 救いは、「主ともにいます」(インマヌエル)ことです。どこで、主イエスと共にあるのでしょうか。自分勝手に思いこんでいるだけでしょうか。主イエスは毎日、いつでも、私たちと共にいてくださいます。しかし、同時に、私はここであなたたちと会うと約束されたのが礼拝です。ですから、復活の主イエスは続けて次の日曜日にも集まっている弟子たちに現れて「平安があるように」と言われたのです。

 ここから、キリスト教はユダヤ教の土曜安息から離れて、日曜日を主の日とし、礼拝の時としていったのです。復活の主が実際に現れて弟子たちを祝福された時を礼拝の時としたのです。礼拝は死に勝利された復活の主にお会いする時です。礼拝の場に霊的に臨在される主にお会いする。そこで主と共に生きるのです。ここに主の臨在に具体的に触れる聖餐式の意味があるのです。私たちの教会では毎週、聖餐式を行っていませんが、本来は礼拝の度ごとに行うべきものです。そこにおいて、私たちは主イエスの臨在に具体的に触れるのです。それが礼拝なのです。

 次に、礼拝は祈りの集いです。祈りの集いと言うと祈祷会みたいなものを考えてしまうかもしれませんが、そうではない。主の祈りの中で「我らの罪を赦したまえ」と祈る。礼拝はこの赦しを求める祈りを共に捧げる集いなのです。マタイ福音書18章は、教会を考える時の大切な箇所ですが、祈りを教える箇所でもあります。教会は自分は罪を犯したことがないという正義の人間が集って正義を振り回すところではない。自分も罪を犯した者として、罪を犯した兄弟たちと共に祈るところが教会なのです。

 ルカ福音書18章9-14節を読みます。二人の人が「祈るために神殿に上った」。二人とも礼拝に来ているのです。ファリサイ派の人は胸を張って言います。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します…」。この祈りは自分の義の報告です。自分はこんなに立派な人間だと言う自己義認の報告です。自分で義と認めているのですから、神によって義と認めていただく必要などない。礼拝に来てはいるが本当の意味で礼拝が成り立っていない人です。

 もう一人の人、徴税人はまことに惨めです。徴税人は自他共に認める罪人の代表です。遊女ややくざな人たちと一括りにされていたのが徴税人です。知的強盗というのが当時の徴税人です。税金をふっかけて強引に取り立てる。それを生業にして生活していた人です。罪を犯さないでは生活できなかった。自分の罪深さ、罪人であることがよく分かる。しかし、この人も神の前に立つ。ここにイスラエルの人々のすごさがある。遊女であるからと言って、主イエスの前から逃れない。罪を犯さざるを得ない仕事を生業にしているからと言って礼拝から逃げない。これが日本人キリスト者の意識とまったく違うのです。

 「徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」。こう申し上げる以外ない。しかし、これがまことの礼拝なのです。主イエスは言われます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。これが主イエスによる赦しの言葉です。罪を犯してきた。これからも罪を犯し続ける。しかし、今、主イエス御自身によって彼は義とされたと言われた。私たちも徴税人と同じです。罪を犯し続けねば生きられない。しかし、この私たちが今、義とされた、赦された。私たちはこの1週間、この主イエスの赦しの言葉を心の中にしっかり保って生きるのです。「礼拝に生きる」とは、赦しの恵みの中で生きることです。赦しの言葉を胸に受け罪赦された者として生きるのです。これが礼拝者としての生き方です。