《前週の説教要旨》 2012年7月22日
聖書=ルカ福音書2章8-20節
大きな喜びを告げる
2章1節から7節では「拒まれた救い主」が記されています。神の訪れである主イエスの誕生に際して、ベツレヘムの町には宿を提供する家はなかった。主イエスは「受け入れられなかった救い主」です。しかし、その中で僅かの人ではあったが、幼子を救い主として礼拝した人があったということを記すのが、この個所です。ベツレヘムの人口に比べると本当に僅かな一握りの人でした。数人と言ってもいい。その人たちが幼子誕生を祝い、信仰による喜びを得たのだというのが本日の主題です。
なぜ、ここに羊飼いが登場するのか。羊飼いはイスラエル伝統の最も古くからの仕事でした。族長のアブラハムもイサクもヤコブも羊飼いでした。ところが農耕の民となり、さらに都会的な職業が生まれてきた新しい時代になると、獣の匂いが染みついた粗野な貧しい羊飼いたちが軽蔑されたであろうことは十分理解できます。野宿して羊を飼う人の姿は今日、労苦する私たちの姿です。「3Kの職場」と言われる仕事がある。「きつい」「危険」「汚い」仕事で労苦する人たちの姿がここにある。羊飼いは、多くの人々が休んでいる時にもなお、働かねばならない人、寒さと暗さの中で辛い仕事をしなければならない人、貧しさの中で悩んだり苦しんだりして生きている私たちの代表なのです。
そのような羊飼いたちに「主の天使が近づき」、言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。これは神ご自身による特別な啓示です。人は神の特別な啓示、神からの語りかけなくしては救いの出来事を知ることはできません。「大きな喜びを告げる」。「告げる」と訳されているギリシャ語はエバンゲリゾマイです。福音と言う言葉の動詞形です。「告げる」という言葉だけで「福音を伝える」「良い知らせを伝える」と訳されます。真っ暗闇の中で「きつい」「危険」「汚い」仕事で労苦する人たちに、神が直接、御使いを派遣して福音を知らせてくださったのです。
その大きな喜びの内容は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が生まれたという出来事です。なぜ、このことが大きな喜びなのか。この幼子が救い主だからだと言うのです。救い主が生まれた。救い主が与えられた。このことが大きな大きな喜びなのです。「救い主」とは、キリスト、メシアです。メシアとは「油注がれた者」という意味の言葉です。ユダヤでは、王と祭司と預言者が油を注がれてその務めに任じられました。主イエスは救い主として王であり祭司であり預言者であるということです。こういうお方がお生まれになったと告げられた。
今日、私たちはこの喜びが分からなくなっています。救いの必要が分からなくなっているからです。むしろ、自分には救いなど必要ない。だれかに救ってもらうと言う考え方自体が敗北主義ではないかと考える時代です。これは自分が本当にはどんな人間なのかということが分かっていないからです。癌になっている人が、その病気がひっそりと進行していて自覚症状がないために自分は健康だと思い込んでいるのと似ています。つまり罪についての理解が決定的に欠乏しているからです。聖書は人間が神の前ではどんな存在であるかということをはっきり指摘しています。聖書は全人類、つまり「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と記します。人間は罪のもとにある。罪人なのだと指摘しているのです。聖書を読む必要はここにあります。罪を知るところで救いが求められるのです。
天使はこの幼子がその救い主だと告げた。このお方の生涯とその十字架が罪を償うものであったからです。主イエスは油そそがれた大祭司として、私たちの罪を償うために、御自分を犠牲として捧げて下さいました。これがまことの救い主のお働きでした。ここにわたしたちの救いの喜びがある。すべての罪が償われて、罪が赦され、神の子としていただく道が開かれたのです。神の子としていただく喜びです。
天使たちのみ告げを受けた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言います。彼らは天使の知らせを真剣に受け止めました。「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言います。神の恵みのみ業を確認しようとします。真剣な求道です。おそらく一軒一軒探し訪ねた。そのような姿が「探し当てた」という言葉に残されています。彼らは「さあ、行こう」と互いに語り合い、マリアとヨセフ、幼児を熱心に捜し当てて見出したのです。そして「神をあがめ、賛美した」のです。人生のまことの喜びを得たのです。求める人はそれを得るのです。
「さあ、行こう」とは、レッツ・ゴーです。先ず自分自身が「行こう」と決断します。そして他の人たちを「一緒に行こう」と誘います。これが「さあ、行こう」です。天使の言葉を聞いて、素直に応答した。自分が決断し、友人に呼びかけ出かけて行く。羊飼いたち一人一人が、天使の語りかけに応えて「さあ、行こう」と語り出したのです。そして幼子である主を見出した羊飼いたちはその見聞きした事柄をずっと担って歩み続けます。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼児について天使が話してくれたことを人々に知らせ」続けました。彼らは、飼い葉桶に寝かされている一人の幼児を拝んで、神を賛美しました。神は生きておられる。救い主が与えられた。神の言葉通りだ。彼らは得心して帰っていきます。そして、この幼児の出来事を仲間に伝え始めたのです。彼らは最初の伝道者となりました。私たちも、主に出会い、その恵みの出来事を伝えるものになりたい。