2012年7月29日
聖書=ルカ福音書2章21-24節
律法の定め通りに
特有な言葉が何回か使われています。「律法に定められた」、「律法の規定どおりに」という言葉です。主イエスは幼子として、当時のユダヤ人男子が受けるべき3つの儀式を「律法に定められた」「律法の規定どおりに」行われました。3つの儀式とは、1つは割礼と命名、2つは長子の贖い、3つはそれに付随する女性の産後の潔めです。
ウェストミンスター信仰告白第19章に「神の律法について」という一章があります。これをきちんと理解してほしい。ウ信仰告白では律法を3つに区分けしています。1つは十戒などの道徳律法です。今日でも生きて導くものです。2つは儀式律法です。神殿礼拝にかかわる規定で「この儀式律法はみな、今の新約のもとでは廃棄されている」と記されます。主イエスが十字架で死なれた時に至聖所に至る幕が真っ二つに裂けたということが起こりました。この時に廃棄されたのだと言っていい。3つは「司法的律法」と呼ばれます。これは旧約のイスラエルの国と国民に一時的に与えられたその時、その時の神の指示です。
ウ信仰告白のこの区分けはたいへんすぐれています。このウ信仰告白の区分け方をしっかり受け止めたら、大きな混乱は起こらないだろうと思っています。旧約の掟、律法を受け止めるとき、これは道徳律法に属するのか、これは儀式律法に属するのか、それとも司法的律法に属するのか、きちんと仕分けをして受け止めていただく必要があると考えています。頭から「聖書は神の言葉だ」ということで、このことをきちんと受け止めないととんでもない間違いを犯してしまうことがあります。
ユダヤの男子は割礼を受けねばなりません。聖なる義務であり特権でした。生後1週間目に行われました。その日が安息日であっても割礼だけは行われた。男性の性器の包皮の部分を切り取る手術です。その日に名付けがなされます。これでイスラエルの一員、アブラハムの子孫とされます。主イエスは律法の規定どおりに割礼を受け、イエスと名付けられました。イエス、「神は救いたもう」という意味の名前です。普通、名付けは父親か部族の長がする。しかし、そのような人間の命名ではなく、神ご自身の名付けです。ここに主イエスの救い主としての使命が表されているのです。
主イエスの両親は産後40日経って幼子を携えてエルサレムに上った。長子の贖いをするためでした。初子について出エジプト記13章2節に規定されています。人であれ家畜であれ母の体をはじめて開く初子は神のものだという主張です。そこで神は贖いの規定を設けました。民数記18章15、16節に記されています。「人の初子は必ず贖わねばならない。…初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケルの贖い金を支払う」。1シェケルは50円ほどで非常に低い金額です。5シェケル・250円程度を支払って長男を神のもとから買い戻すわけです。5シェケルは命の代価です。金持ちだからと言って高くするわけではない。貧しいからと言ってこれ以下になるわけではない。律法の規定どおりに、主イエスも長子として銀5シェケルで両親の元に買い戻されたのです。
第3が産婦の潔めの儀式です。男子を出産した場合は40日間汚れるとされ、その期間は聖なるものに触れてはならない。聖なるところに出入りしてはならない。この期間が終わったら、母親は焼き尽くす捧げものを捧げねばなりません。「産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、…幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す」と記されています。しかし、出産は羊を捧げることの出来る豊かな家の女性ばかりではない。貧しい女性も出産する。そのため「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き…献げ物とする」と、貧しい女性のための規定がある。
ヨセフとマリアが捧げたのは貧しい者の捧げものでした。主イエスの家庭は貧しかったことが分かります。主イエスは貧しさの中で成長し、生活の困難を知っておられました。生活の不安におびえる人々の心をよく知っておられました。しかし、主イエスの両親は貧しい生活の中で、主の律法に従って歩んだ。私たちは貧しくなると教会生活が出来なくなるような思い込みをしがちです。イスラエルでは貧しいから神の民としての生活が出来ないとはまったく考えていません。富んでいても、貧しくても、そういうことは神の民としての生活とは関係がない。貧しいから捧げものをしないのではない。貧しいから信仰生活には入れないとは考えない。貧しい者は貧しい者として献げものをする。私たちは今ある中で、今おかれている中で、主に従って生きるのです。
福音書記者ルカはなぜ、主イエスとその家族が律法の規定に従ったということを強調しているのだろうか。それは、主イエスは道徳律法だけでなく、儀式律法に従い儀式律法を完成してくださったということです。律法を成就し、律法の終わりとなられたのです。儀式律法は神の民イスラエルに罪を贖う救い主が来られることを、儀式という形で教え示すためのものでした。主イエスは生涯で十戒に従われただけでなく、神殿や聖所に関する律法を満たしてくださったお方なのです。救い主の到来とその救いの御業を予告したのは、旧約預言者たちだけではありません。旧約の最も基本である神殿の祭り、神殿の祭儀が示す事柄こそ、キリストの救いとその基本を予告していたのです。主イエスは、そのご生涯にわたって祭儀律法を忠実に守り抜かれ、祭司となり、小羊となられたのです。そして、主イエスの十字架の死をもって神殿の時代を終わりとされたのです。