2012年8月12日
聖書=イザヤ書52章7-12節
平和を告げる者
8月15日はかつて日本が世界中を敵に回して戦い、敗戦した記念の日です。この個所から平和について考えて参りたい。ある方は聖書を読んで、旧約の神は戦いの神、新約の神は平和の神と言います。違う神と思うほどに旧約と新約では違いが目に付く。旧約聖書では「戦う」が171回、「戦争」が319回出てきます。ヨシュア記から列王記までの歴史書の部分は、イスラエルの民が戦いに明け暮れていたような印象を与えます。丁度、日本が10年おきくらいに戦争をしてきたみたいにです。近代日本も戦争に明け暮れてきました。台湾出兵、江華島事件、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリヤ出兵、満州事変から日中戦争、太平洋戦争と戦争から戦争が続きました。近代日本の姿は古代イスラエルの姿と似ていると言っていい。アッシリア捕囚とバビロン捕囚でイスラエルの国が滅びるまで戦いに明け暮れていた。
さらに聖書の中には「滅ぼし尽くせ」という独特な命令があります。申命記13章16-17節です。この「滅ぼし尽くせ」と言う命令は、新改訳では「聖絶」と訳しましたが宗教的な意味の言葉なのです。しかし、旧約の民は現実のこととして受け止めました。それを受け止めて、後々までもたいへん血なまぐさい戦いが繰り返されるような事態も起こることになりました。これらのことは旧約が未完成であることの証拠です。
ところが、新約の中にはこのような戦いを勧める言葉はまったくありません。むしろはっきり戦いを否定しています。主イエスご自身がペトロに対して、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26:52)と言われました。この主イエスのお言葉からキリスト者は平和を考えていくのです。今日、旧約のみ言葉を用いて戦争の勧めを語ることは、キリスト教的ではないと言っていい。新約から旧約を理解するのがキリスト教です。新約において跡づけられないこと、新約で確認できないことは、旧約時代までの限定づけられたものと言っていい。
しかし、実は旧約聖書も決して戦いだけを勧める書物ではありません。「平和」(シャローム)という言葉も旧約聖書にはたくさん出てきています。シャロームは237回出てきます。先ほど、「ヨシュアの時代からバビロン捕囚でイスラエルの国が滅びるまで戦いに明け暮れていた」と申し上げました。その通りです。戦いに明け暮れた結果、イスラエルの民は国そのものを失ってしまった。紀元前721年、北王国イスラエルはアッシリアに捕囚になり、彼らはとうとう故郷に帰ることはありませんでした。南王国ユダはそれより遅れて紀元前597年、バビロンに捕囚になりました。国が敗れ、多くの人々が異邦の地に連れ去られるという惨めな体験をして、そこから本当に平和を考えるようになりました。
日本も勝った、勝ったと言っている間は、平和を真剣に考えなかった。手ひどい敗戦を経験してから本当に平和を考えるようになりました。敗戦で国が敗れることはつらいことですが、そういう経験をしないと人間は平和を考えるようにはならないのです。そういう意味では、人間はつらい体験をしなければ人の痛みが分からないし、敗戦を経験しなければ平和を考えないのだと言っていいのではないでしょうか。
イスラエルでもバビロン捕囚を経験した預言者の言葉の中に、「シャローム」・平和についての言及が多くなります。イザヤ書52章7-12節は、バビロン捕囚からの解放が語られるところです。イザヤ書52章7節に「平和」という言葉が出てきます。旧約聖書の中でも代表的な平和に関する言葉です。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる」。
この預言者はバビロン捕囚の人々の中にいました。国が敗れ、多くの人がバビロンに連れてこられた。バビロンの人々に仕えて生きる以外なかった。すぐに国に戻り、国を再建する希望はない。しばらくこの異邦の地に住まねばならない。神の民も神殿を失って信仰もあやふやになってきた。人々の心はすさみ、自暴自棄になる。そのような中で、預言者は希望を語るのです。今すぐにではない。今はバビロンで敗戦の民として生きる以外ない。ここで生きるのだ。ここで結婚して子どもを産み生活するのだ。しかし、神は戦争に明け暮れ、神に対して罪を犯し国を失ったイスラエルの民にもう一度、故郷に戻る日を与えてくださる、と語りかけたのです。
その中で預言者は「平和」の到来を語った。やがて「平和」が告げられる時が来ると語るのです。「希望としての平和」を語るのです。ここでは「恵み」、「救い」という言葉で平和を言い換えています。「平和を告げ」、「恵みのよい知らせを告げ」、「救いを告げ」と言う言葉は同じことを言い換えているのです。預言者が語る「平和」は、単に戦争がない状態という消極的な平和ではありません。預言者が語る「平和」は恵みであり、救いでもある。この平和の内容は、「あなたの神は王となられた」ということです。これがまことの「シャローム」なのです。平和とは、神がまことの王として支配するところなのだということです。主イエスはわたしたちの羊飼いとなられ、わたしたちの王となってくださいました。イザヤの平和を告げる預言の言葉の成就は、キリストが一人一人の心の中にご支配を確立される時を待たねばなりませんでした。教会とキリスト者はこのシャロームを伝えるのです。教会とキリスト者の使命は平和を宣べ伝えることです。神の解放、平和を告げ知らせる者とされているのです。