2012年10月7日
聖書=ルカ福音書4章5-13節
悪魔の誘惑の正体
悪魔の誘惑は基本的にはいつも同じです。主イエスを父なる神から引き離すことであり、私たちを神から引き離そうというのが狙いです。父なる神と主イエスの間に割って入り、両者の絆を断ち切ることが狙いです。荒れ野の誘惑は「もし、神の子であるなら」という主イエス特有の誘惑であると共に、私たちの誘惑と共通するものを持っています。
第2の誘惑はこれです。悪魔はイエスを高い山に連れて行って、そこからエルサレムの街の繁栄の姿を見せて言います。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。……これと思う人に与えることができる。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる」。
誘惑は、「権力と繁栄を与えよう」というものです。その条件は「私、悪魔を拝むこと」です。と言って、イエスに「悪魔礼拝」を勧めたわけではない。悪魔と仲良くすること、妥協することです。しかし、悪魔は悪魔らしい顔をしていたり、いかにも悪魔らしい姿、形をしているわけではない。人の傍らに来て、賢く生きることを勧める隣人の姿をしていると言っていい。この世の流れに沿ってうまく立ち回ったら、世の権力と富を手に入れることができるという誘惑です。「この世的に賢くなれ」ということです。主イエスはこれから救い主、メシアとして奉仕するのです。悪魔は「人々が期待しているものを、あなたに提供しますよ」と囁いているのです。
この時代、ユダヤはローマ帝国の支配に組み込まれ、総督が派遣され、徴税人を通してユダヤの富がローマに流れていきます。ローマの異教的な風俗習慣がユダヤの中にも持ち込まれてきています。そのような状況の中で、心あるユダヤ人たちは何とかしてローマの巨大な権力から解放されることを強く願っていた。そのため、「自分はメシアだ」と名乗る人たちも出てきました。その人々に期待されたメシア像は世の権力を手に入れて力によってユダヤをローマから解放するメシアでした。貧しく虐げられて苦しむ人たちを救う道として、政治的権力を手に入れることは最も魅力ある近道であったと言っていいでしょう。
それに対して、主イエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とおっしゃいました。申命記6章13節の引用です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。この主イエスの答えは、何を意味しているのでしょうか。権力と富というこの世的な手段と方法で人々を解放し、救いを行うことを拒否したのです。結果オーライではないということです。どんな手段を用いてでも人を救えばそれでいいというのではない。
主イエスの与える救いは、神の救いです。神から離れた人間をもう一度、神のもとに連れ戻すことがまことの救いなのです。富と権力によって民族の解放をすることが、主イエスのなさる救いではありません。神があがめられ、神の義が貫かれ、同時に神の愛が貫かれるという救いの道なのです。それこそ十字架において、主イエスが命を捨てるということによって成し遂げられた苦難のしもべの道なのです。
第2の誘惑に失敗した悪魔は、最後の誘惑を試みます。悪魔は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて言います。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』、また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」、とあるではないかという誘惑です。
この誘惑は奇跡を行って人々の人気を集める誘惑です。神殿にはユダヤ中から、世界中から多くの人が巡礼に来ています。その人たちの目の前で神殿の屋根の上から飛び降りて無傷であれば、人々はあっと驚き、メシアが現れたと受け止めるだろうというのです。悪魔の提案は、目にものを見せるショウのようなことを行うことでした。私たちも受ける誘惑です。この浜松の町の人が、いや日本中の人の目がここに釘付けになるような大イベントを出来ないだろうか。そうしたら、ああここに神の力が働いているということを、目にもの見せて示すことが出来るのではないかと。創価学会などが武道館を借りて大集会をやります。同じようなことを私たちもして、私たちにも力があることを示そうではないかと考える。
それに対して、主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになられた。旧約の申命記6章16節を引用したものです。「あなたたちがマサにいた時にしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。神の約束の言葉を自分の利己的な目的に利用してはならないとのみ言葉なのです。
私たちも、何とかして人を集めよう、何とかして大きくなろうとして、神の力がここにあると示そうと考える。しかし、主イエスは人の目にものを見せるという道を拒まれたのです。主イエスが十字架にかけられた時、人々は叫びました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)。主イエスは十字架から飛び降りるようなことはしません。むしろ、じっと忍んで十字架を担い続けられたのです。イザヤ書53章の受難の僕の道を歩まれたのです。私たちは、この主イエスの道に従うのです。私たちの救いは、十字架を担われたキリストにあります。罪人の身代わりとして十字架を担ってくださったキリストを見上げ、このお方を主キリストと信じていただきたい。そこに神の与えてくださる救いがあるのです。