2012年10月14日
聖書=マルコ福音書5章1-20節
あなたの居場所はどこ?
「居場所」とは、家、学校、会社のようなはっきりした場所ではない。安心して息することのできる場所と言っていいでしょうか。本来は家や学校、会社などがおるべき所、居場所の筈ですが、そういうところでは落ち着けない、安心して息することができない。そのため居酒屋とか漫画喫茶が落ち着ける場所になっている。
主イエスがガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いたところから話が始まる。舟からあがるとすぐに、「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」。主イエスを待ち構えていたような出会いです。この男は「墓場」を住まいとしていた。ずいぶん奇妙なところに住んでいた。家も親・兄弟もあった。ところが家が安心して息することの出来る場所ではなかった。そこで墓場に逃れ、墓場を住まいとして居着いてしまった。家が安住の地でない人は多いのではないでしょうか。
その結果、悪霊にとりつかれたとしか言いようのない状況になっている。家の人はなんとか引き戻そうと押さえつけ何回も足かせや鎖で繋いだ。けれども引き千切って家を飛び出し、墓場に住み着いた。異常な姿です。しかし、この姿は今日の私たちの姿であると思う。墓場には生きた人間はいない。彼は人嫌いと言うよりも生きた人間との交わりが出来なかったのではないか。交わりに入れない、受け入れてもらえない。人が怖かった。人間は交わりをする存在です。話しかけ、笑い合い、抱き合い、励まし合う。そういう交わりが閉ざされている。そこから呻きだす。「夜昼、絶え間なく墓場や山で叫び続けて、石で自分の体を傷つける」。家庭にも社会にも受け入れてもらえない自我が暴力的に外に表れてくる。数年前、秋葉原で車を暴走させ、多くの人々を刺し殺すという事件も起こりました。
メールやツィッターはできても仲間と話が出来ない。ゲームやケイタイには熱中できても、学校には行けない。最近では家族で食事する家庭が少ないと言われています。朝の食事も別々、しない場合も多い。人間らしい交わりが無くなりかけている。居場所を失っている。墓場を住家にしていた男と変わらないのではないか。
主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と命じる。これは悪霊追放の言葉ですが福音の言葉です。この人は悪霊に捕らわれている。悪霊から解放されなければならない。主は生ける神の支配を語られたのです。生まれ変わりが必要です。生まれ変わるとは生ける真の神がこの人を支配することです。今まで墓場に住まわせ荒々しい生活をさせてきたのは、生けるまことの神を知らなかったからです。神と言う言葉は知っていた。しかし、本当の神を知らないできた。人は、悪霊に支配されるか、それとも神に支配されるか、です。主イエスは彼に「神を信じて生きよ」と命じた。あなたは神を信じて生まれ変わらねばならない。神の恵みに支配されなければならない。悪霊に支配されていたら、本当の平安も人間らしい生活もない。人間らしい生活は生ける真の神を信じるところにあります。
次に、主イエスはこの男に「名は何というのか」と尋ねます。名を聞くことは、人そのものを問うことです。「本当のあなたは誰なのだ」と。名を尋ねたのは、この男に自分の真実の姿を理解させるためであると共に、主ご自身がこの男と交わりを持とうとされたからです。主イエスの前に出てきて本当の自分の姿を認めなければ救いはない。この男は「名はレギオン。大勢だから」と答えます。これは男の本当の名前ではない。しかし、うそを言っているのではない。「レギオン」とはローマの軍隊の規模、5千人-1万人の軍団という意味の言葉です。重装備した5千人以上の軍隊の力に匹敵する汚れた霊に取り付かれているのだという自己理解です。
この答えの中で彼は自分の本当の姿をさらけ出した。悪霊に取り憑かれて我を失い、どうにもならなくなっているありのままの姿を認めた。彼は主イエスに出会って、自分の本当の姿、失われている存在に目覚めたのです。自分の本当の姿を知ることは大事なことです。数え切れないほどの強力な悪霊に取り付かれている。多くの声に引きずり回されるようにして生きてきた。人間の声が恐ろしいかった。そして今、悪霊を追放し、自分を受け入れて交わりを持とうとして下さる主イエスに、ありのままの姿を示したのです。彼は今、主イエスに自分の人生をゆだねたのです。キリストに信頼した。主イエスに心を明け渡したと言ってもよい。あるがままの惨めな姿を主イエスにお見せしたのです。ここに救いがあります。
私たちは時折誤解をします。イエス様のところに行くのには、きれいになってから、つまりある程度品性が立派になってからのことだと考える。もう少しましな人間になったら教会にも行きましょう、と。これは大きな間違いです。主イエスの前に飛び出してきたのは、墓場を住家として、石で自分の体を傷つけている男、着るものも着ずに恥を恥とも思わなかった男です。このような人が、主イエスによって呼びかけられ、赦され、清められるのです。そして、その結果どうなったでしょう。
町の人たちが出てきてみたら「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」と記されています。彼が今、いるところはどこでしょう。主イエスの傍らです。ここが彼の居場所です。彼は本来のおるべき場所を回復したのです。着物を着るとは恥の感覚を取り戻したことです。暴れ回っていたのが、キリストの側に座って正気になって落ち着くのです。これがキリストの救いです。イエス・キリストの救いと癒しは、私たちを神の前に連れ戻すのです。