11月4日礼拝説教 「歓迎されない救い主」

                    2012年11月4日

聖書=ルカ福音書4章16-30節

歓迎されない救い主

 

 この箇所は主イエスの伝道の生涯、公生涯でも極めて初期の出来事です。ある人は、主イエスのガリラヤ伝道の時代を「ガリラヤの春」という主題でまとめています。主の周りに人が群がり集まり、話を楽しく聞いていた。その中から12使徒として選ばれる弟子たちが従って行った。ガリラヤ伝道の時代が一番なごやかで、稔り多かった。豊かに水を湛えているガリラヤ湖を囲む地方は農産物も豊かで生活も豊かです。人の気持ちも穏健になります。主イエスの初期の伝道はたいへん祝福されたのだと考えます。

 しかし、主イエスはガリラヤ伝道のごく初期の段階から人々に歓迎されなかった。人々の憤慨を買うような面があった。ルカ福音書は、主イエスが初めから歓迎されない救い主であったと明らかにしているのです。主イエスはご自分の育ったナザレに帰って来た。安息日にナザレの会堂に入り、イザヤ書を朗読し「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。そこで「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」たと記されています。「驚いた」という言葉には幾つかの意味が込められています。感嘆した、驚嘆したという意味があります。驚いて舌を巻いてしまったのです。

 同時にナザレの町の人たちは単純に感心しただけではなかった。「この人はヨセフの子ではないか」という思いです。これは軽蔑、侮蔑の言葉です。この男はうまいことを語っている。偉そうなことをしゃべっている。しかし、俺たちはこの男のことは何でも知っている。大工のヨセフの倅ではないか。ずいぶん偉くなったものだというささやきの声です。ねたみの声、疑いの声でもある。「驚いた」の中には、この思いも含まれていた。

 ナザレの町の人たちの思いの中には、そんなに偉そうなことを言うのなら、力を見せてみろという思いがあった。彼らは主がガリラヤ湖畔の街々でなさった奇跡やいやしの業について聞いてもいた。神の救いの時が来たと言うのなら、先ず我々の目の前で、それを見せてみろという思いもあった。噂では分からない。実力を見せて見ろということです。

 その人々の思いを見抜いて、主イエスは言われます。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」。主イエスのこのお言葉は、説教を聴いて反応した人々の心の中の思いや言葉に対して答えたものです。主イエスは断固として言われます。「はっきり言っておく」。「アーメン、レゴー」、「わたしは真実を語る」と言われます。非常に大事なこと、神の真理を語ると言われた。私たちもしっかりと受け止めねばならないことです。

 主イエスは旧約聖書に登場する二人の預言者を例にとって神の取り扱いについてお語りになった。ナザレの人々に対する厳しいお言葉です。まず、預言者エリヤを取り上げます。列王記上17章にある出来事です。エリヤが干ばつを預言します。その時に、神はエリヤに王アハブを逃れてシドン地方のサレプタのやもめの所に逃れて住むことを命じました。やもめは自分の所に逃れてきた預言者を手厚くもてなそうと思うが、彼女の方も問題を抱えていた。夫を失い食べ物もなくなっている。最後の一握りの小麦粉で食事を作って食べ、息子と一緒に死のうとしていたところです。エリヤは言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。……イスラエルの神、主はこう言われる。『主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。やもめがエリヤの言葉通りにすると、主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

 次に、主はシリアのナアマン将軍のことを語られます。「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」。列王記下5章に記されています。シリアのナアマンは、王の信頼も厚い立派な将軍でした。しかし重い皮膚病に罹っていた。その時、イスラエルには預言者がいていやしてくれると聞き、エリシャの元にやってきた。ナアマンは預言者が出てきて直接手を置いていやしてくれると思っていた。ところがヨルダン川で7回身を洗えと言うだけであった。ナアマンは怒って去ろうとしたが、僕たちの忠告で心を改め、預言者の言葉どおりに行ったら完全にいやされた。

 この2つの出来事は、神の恵みの選びを物語る例証です。神はイスラエルの人たちだけでなく、むしろ異邦人を救う神である。あなたがたがよく知っており、自分たちの誇りとしている預言者エリヤにしろ、預言者エリシャにしろ、本当に救ったのはあなたがたが異邦人と呼んで軽蔑しているシドンのサレプタに住むやもめであり、シリア人のナアマンではなかったか。新しい解放の時、神の救いの業は今や、イスラエル以外で行われるのだ。かつてもそうだったのだと言われているのです。

 しかし、この二人にただ一つ共通していることがある。預言者の言葉に従ったことです。神の言葉に従った。これが信仰です。信仰とは神の御言葉への信頼です。信頼して服従するのです。やもめはエリヤの言葉に信頼して、自分たちが食べて死のうとしていた一握りの粉で預言者を養いました。ナアマンはエリシャの言葉に従ってヨルダン川に身を浸しました。神の御言葉に信頼し、御言葉に実際に服従した。神のみ言葉に従うところに救いがありました。神の恵みの出来事は、ここに起こるのです。