2013年2月3日
聖書=エフェソ書5章15-20節
主に向かってほめ歌う
賛美歌は大きな力を持っています。ある牧師夫人の証しを読んだことがあります。その女性の家庭はキリスト教とは無関係でした。しかし時折、お母さんが台所で「主、我を愛す、主は強ければ…」とか「いつくしみ深き友なるイエスは…」と口ずさんでいた。お母さんが教会に行っていたことはなかった。おそらくお母さんが幼い頃日曜学校に行っていた時に覚えたのでしょう。台所で口ずさむ母の歌をその娘が覚えていて、娘さんが大きな試練を受けた時に母親が台所で口ずさんでいた賛美歌を手がかりに教会に導かれ、やがて娘さんは信仰を持ち、牧師となる人と結ばれた。これは日曜学校の力であると共に賛美歌の力を示しています。牧師の語る説教よりも賛美歌は人の心の襞に刻まれて世代を越えて福音を伝えていく。賛美歌はそういう力を持っていることを自覚していただきたい。
キリスト者の生き方は聖霊に満たされていることです。聖霊に満たされた生き方が神を賛美する生き方です。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」です。神を礼拝して生活が定まっていくのです。その礼拝の中で賛美は大きな位置を占めます。また賛美は礼拝の中だけではありません。キリスト者の生き方は、神を賛美する生き方、神に向かってほめ歌をうたう生活です。
浜松教会の賛美はたいへんすばらしい。下を向いてうつむいたような賛美でなく、堂々とした声でしっかり歌われています。私の経験では珍しいことだと言っていい。どうか今の状態で賛美歌の意味をよく理解して歌い続けてくださることをお願いしたい。
パウロは賛美を3つの言葉で記します。「詩編と賛歌と霊的な歌」です。この3つについてお話ししたい。パウロは、この3つの言葉で初代教会が実際に行っていた賛美の状況を表しているのです。
先ず「詩編」です。キリスト教会は賛美をユダヤ教から受け継ぎました。1つが会堂礼拝の伝統です。会堂の礼拝で大きな位置を占めるのは聖書の朗読とその解説ですが、それと共に賛美です。詩編が歌われます。無伴奏で先導者や聖歌隊がリードして、会衆全体によってヘブライ語の抑揚を生かした柔軟なリズムで歌われたということです。詩編は本来、歌われるものでした。それがキリスト教会の歴史に引き継がれてきました。
会堂礼拝での賛美はほとんど無伴奏でした。そのためキリスト教会でも楽器伴奏を拒否するグループがあります。あるいは伴奏楽器はオルガンだけというような主張をする人たちもいます。しかし、キリスト教がユダヤ教の礼拝から受け継いだもう1つの大きな源泉は神殿礼拝です。内容的には会堂と同じ詩編賛美が中心ですが、ここには専門的な訓練を受けたレビ人の神殿聖歌隊があり、太鼓や竪琴、角笛、シンバルなどの大がかりな音楽隊がありました。音楽に合わせて踊り歩くようなこともありました。旧約の神殿礼拝は楽器などでも大変豊かな礼拝であったということを見落としてはなりません。
次に「賛歌」(ヒムン)です。賛美歌です。この内容は「新約聖書の中に記されている当時のキリスト者の作った歌」でしょう。マリアの賛歌、ザカリアの歌、フィリピ書の中にあるキリスト賛歌、黙示録の中にある賛美など、数えるとたくさんあります。時折、初代教会ではユダヤ教の会堂から引き継いだ詩編だけを歌っていたと言う方もいますが、決してそうではない。新約聖書の中には新しいキリスト賛歌が作られて、賛美されていた。初代教会は賛美を産み出す教会であったと言っていいでしょう。
賛美歌とは何かと言うことです。アウグスチヌスは、神とキリストを賛美する、神への賛歌であると言いました。これが基本的には神礼拝の歌ということです。父なる神とキリスト、聖霊という三位一体の神を礼拝する賛美の歌です。
では「霊的な歌」とは何でしょうか。元々はただ「歌」です。それに「霊的な」という形容詞が付いている。神賛美の歌、賛歌というよりも、もう少し広い意味を持っていると言っていいでしょう。詩編と狭い意味での神賛美の歌だけで礼拝すべきであると主張する人たちもいます。しかしそれだけでは、宗教的あるいは感情的には寂しいものになるでしょう。私たちの信仰を鼓舞したり、信仰の確信を訴えたり、キリストの恵みと真理を分かりやすく伝えたり、信仰の決断に人を招いたり、あるいは台所などでも口ずさめる歌なども必要です。これらをひっくるめて霊的な歌、聖なる歌と呼んでいいでしょう。
今日の日本の讃美歌集や聖歌集には、礼拝で歌う伝統的な賛美歌から、いろいろな集会で歌うもの、個人のデボーションなどで歌うもの、台所などの生活の場で口ずさめるもの、キャンプなどでも歌えるものなど、いろいろ取り混ぜてあります。私たちの礼拝では、詩編賛美、狭い意味での神賛美の歌と共に、霊的な歌・聖歌と呼べる部分の歌をも加えて礼拝の賛美として用いています。これはたいへんよいことです。
私は、現在、発表されているよい賛美歌を積極的に見つけて、礼拝やいろいろな集会で用いて行きたいと願っています。これはカトリックのものだから、これは福音派のものだからと、レッテルを貼ってしまわないで、いいものはいいと認めて、使っていきたいと願っています。そしてさらに、現在の讃美歌第1編をもよく用いたいと思います。いい賛美歌がたくさんあります。口語になった時でも残しておくべき文語の賛美歌もあるのです。いいものは文語であれ、口語であれ、用い続けたいと願っています。