3月31日イースター礼拝説教 「だれを捜しているのか」

                    2013年3月31日

聖書=ヨハネ福音書20章11~18節

だれを捜しているのか

 

 キリスト教信仰はキリストの十字架と復活を信じるところに救いがあると信じる信仰です。この復活信仰のところに女性が立っている。マグダラのマリアに関わってキリスト復活の出来事をお話ししたい。「マグダラ」とは地名で、ガリラヤ湖西岸にある町です。彼女は7つの悪霊に付かれていたが、主イエスによっていやされた。「7つの悪霊」とは深刻な病ということです。主イエスによっていやされて以来、彼女は主イエスの献身的な弟子になり、伝道活動を裏方から支えてきた。

 週の初めの日に墓に行ったのは彼女でした。マリアは「墓の外に立って泣いていた」と記されています。男の弟子は墓が空であることを確認すると「家に帰って行きました」。イエスの遺体が奪われたと考え、これ以上危険を冒さないためです。しかし、彼女にとっては主のお体がないと言って立ち去ることが出来なかった。どう考えていいのか分からない、誰かが奪っていったのか。泣きながら墓の前で立ち続けた。私たちの人生でも途方に暮れて立ちつくす、どう考え、どう処していいのか分からない時がある。その時に、主イエスは言葉をかけてくださいます。本当の解決はここにあります。

 天使が声をかけます。さらに「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』」と。マリアはこの声を園丁だと思った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。マリアと復活の主との会話は問答になっていません。マリアの関心はイエスの体が見あたらない、イエスの体がどこにあるかということです。彼女は確かに一生懸命です。しかし、求めているのはイエスの遺体です。遺体が盗まれてどこかに「置いてある」と思い込んでいる。イエスを物体として考えている。人は一生懸命な時に、こういう思い込みをしてしまう。主イエスが彼女のすぐ後ろに立っていても気が付かない。マリアの固執、こだわりが活ける主イエスを見ることを出来なくさせている。

 主イエスは泣いて立ちつくす彼女を放っておかれません。主は彼女の名前を呼ばれます。「マリア」と。その直前、彼女への呼びかけの言葉は「婦人よ」でした。1歩距離を置いた呼びかけです。しかし今、主イエスは彼女の名前を呼ばれた。彼女はハッと振り返ります。そこに活ける主イエスを見いだした。そして「ラボニ」(わたしの先生)と応答する。これは素直なマリアの喜びの表現です。この「マリア」、「ラボニ」という呼びかけと応答は、これまでに何回も呼び交わされて二人を結びつけていた言葉ではなかったかと思う。

 主イエスは私たちの羊飼いです。羊飼いは羊の名を知って羊を導かれます。羊飼いである主が私たちの名を呼んでくださるところで、私たちはよみがえられた主イエスを見上げることが出来る。復活の主を信じることが出来るのです。私たちが聖書を読み、説教を聞くことは、この私に対する主イエスの呼びかけの声を聞くことだと言ってよい。復活の出来事は生物学的、解剖学的に立証することは出来ません。科学的に立証しようとする方もいますが、私は違うと思う。学問的に立証されて信じるのではなく、主イエスからの呼びかけの声を聞き分けることであると理解しています。聖書において、礼拝において、「私に」語りかける主イエスのお言葉を聞くところで復活の主を信じる道が開かれるのです。

 「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。…』」。この主イエスのお言葉はどういうことか。主イエスのお体に触れられては困ることでもあるのか。主イエスはトマスに対しては「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われている。マリアは主が生きていることを知ったら、主にすがりついた。「すがりつく」ことに問題がある。主は今、マリアがなすべきことは、主にすがりついて時を過ごすのではない。自分の感情を満足させているべき時ではないと言われたのです。

 主イエスは命じます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。あなたには特別な使命があるのだ。あなたにはなすべきことがある、と言われた。主イエスの呼びかけの声を聞いたところから、マリアは墓の前で泣く一人の女から主イエスの復活の証人へと大きく飛躍したのです。主イエスの復活を証しする新しい人生に変わったのです。この後マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えたと記されています。

 マリアは墓の前で泣き、立ちつくす以外なかった女です。しかし、今、その彼女が他の男の弟子たちのところに喜ばしい主の復活の福音を伝える最初の使者、最初の伝達者とされたのです。福音書は、男性ではなくマリアという一人の女性が、主の復活の最初の証人となったと明らかに記しているのです。当時、社会的には女性は法廷などの公的な場で証言することが認められていませんでした。そのような時代の中で墓に立ちつくす以外なかった女に、キリスト復活のメッセージを語るという最も大切な使命を、復活の主は委ねたのです。