2013年5月19日
聖書=マルコ福音書5章25-34節
すこやかに生きるために
最近読んだ本の中に「人間というものは病む存在だ」と記されていました。私も病院に行くと「ほんとにそうだなあ」と思う。病院の待合室は満員です。病院に行かなくても多くの人が薬やサプリメントを飲んでいる。病んでいる人が多くなっているのではないでしょうか。日野原重明先生が「人間が肉体的な病気にかかるときには、必ず心が病んでいる。反対に心に不安があると胃潰瘍が出来る、偏頭痛が起こる、また高血圧になる、というふうに私たち人間は、心と共に体が病み、また体と共に心が病む。それが病気なのです」と記しています。
12年間、出血の止まらなかった女性が登場します。この女性は肉体と共に心も病んでいる人として描かれています。女性の名前も社会的な身分も記されていません。病や苦痛は人を選びません。彼女は病む私たちの姿であると言ってよい。彼女は医療にも失望していた。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たして」しまっていた。この女性は肉体的に病んでいたと同時に精神的にも病んでいました。心に深いダメージを受けていたのです。
ユダヤでは律法によって社会生活が規定されていた。律法では血の流出のある女は汚れているとされ、このような女は社会の交わりの中に入れてもらえなかった。血の流出が止んで後、祭司によって証明されてからでないと近所の交わりや会堂や神殿にも入れてもらえなかった。社会的な交わり、神との交わりから隔離されていた。大人になっての12年は人生の最も張りのある時期です。恋をし、結婚し、子どもを産む時です。この素晴らしい時期を肉体的、精神的に病み、経済的にも破綻して過ごした。
この女性は「イエスのことを聞いた」。イエスという人が重い病の人を大勢いやしておられると聞いた。そして最後の希望を主イエスに託したのです。彼女はいやされたいという願望だけは捨て切れなかった。いやされたいという願望だけは持ち続けた。私たちが健やかに生きるためには希望が必要です。12年、彼女を生かしてきたのは直りたいという一念であった。私たちも「すこやかに生きたい」と、一筋の望みを持って生きていきたいものです。そして、この願望と共に、彼女が持っていたものがある。彼女の信仰です。「この方の服にでも触れればいやしていただける、と思った」ことです。この女性は主イエスがなさっていたみ業を聞いて、このように信じたのです。ある聖書の学者は、こんな信仰は迷信的だと言います。確かにそういう側面があるでしょう。けれど、私はこの女性は素晴らしいと思う。聖書を読むと、主イエスの多くの奇跡を目の当たりに見ながらも信じようとしない人たちがいます。ところが彼女は主イエスの服にでも触れさえしたらいやされると確信し、行動したのです。
すると、その通りになりました。彼女は群衆に紛れ込んで主イエスに近づいて「イエスの服に触れた」のです。すると「出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。彼女が願っていた通りにいやされました。長い間、彼女を苦しめていた病は治癒したのです。主イエスに触れることは力です。人を造り変える力です。今までの彼女を閉じ込めていた肉体的、社会的な破綻から救われたのです。そして彼女は来た時と同じように、人知れずにスーと帰ろうとした。
ところが、主イエスは彼女を呼びとめます。なぜ、彼女を呼び戻すのでしょうか。今、主イエスのみ力のおかげでいやされた。肉体は健康になった。けれども、主イエスは彼女がすこやかになったと見ていない。魂、精神は病んだままです。ですから、人知れずに帰ろうとしていた。まだ人の顔を恐れ人との交わりの中に入ることが出来ない。堂々と自分の顔を上げて生きていけないのです。肉体はいやされても、心は病んだままです。神は人を神の形に造られました。これは人間は人格的な交わりをするものとして造られたということです。この女性は主イエスに触れたことによって肉体はいやされたが、人格的な交わりをする心は病んだままです。
この物語の中心は、主イエスが振り向いて「わたしの服に触れたのは誰か」と問われたところにあります。主イエスのお言葉によって隠れていることが出来なかった。この女性は主イエスの前に「恐れ、おののきながら、進み出てきた」。そして「ありのまま話した」のです。今まで人に隠れて生きてきた。何でも隠してきた。人の顔を恐れ、不安の中で生きてきた。しかし今、隠さないで真実を語った。病気のこと、惨めな生活、神を恨んで生きてきたこと、何もかも真実を申しあげたのです。主イエスの周りには弟子たちも群衆もいます。しかし、彼女は主イエスの前で声を出してはっきりと語った。彼女ははっきりと悔い改めをしたのです。
すると主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。「娘よ」とは最も親しい呼びかけです。今まで誰からも「娘よ」などと親しく呼んでもらったことはない。主イエスはこの女性をいつくしみ、愛して「娘よ」と呼びかけているのです。彼女を本当にいやしたのは、この主イエスのいつくしみのみ言葉です。主イエスは、この女性をいつくしむゆえに黙って去らせなかった。体のいやしだけでなく、その魂、心もいやして下さるために呼び止めたのです。心、魂がいやされるためには隠れていては駄目です。主イエスの呼びかけの声に応えて、主イエスの前に出て、ありのままを申しあげることです。これが悔い改めです。主イエスはこの女性を呼び止めて、悔い改めさせ、神と人との交わりの中に引き入れて下さった。神を信じて健やかに生きる恵みと力を与えられたのです。