2013年6月16日
聖書=ルカ福音書6章46-49節
何を人生の土台とするか
キリスト教信仰は、ただ神を信じるだけのことではありません。信じて生きるのです。生活が問われてくる。礼拝でウェストミンスター小教理問答を1問ずつ交読しています。問3で「聖書は、主に何を教えますか」と問い、「聖書が主に教えている事は、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです」と答えます。神を信じることと、神の前でどのように生きるかということがセットになっているのです。人生は建築に似ています。建物の場合、高層住宅であれ、平屋の小さな家であれ、最も重要な部分は土台です。ここで手抜きしたら家屋崩壊につながります。人生という建物を建てる時に、どんな土台を据えるかが問われるのです。主イエスはここで弟子の生き方を家を建てた二人の人の姿で対照的に示しているのです。
共通点があります。二人とも家を建てたことです。一方の人が大邸宅を建て、他の人は掘建て小屋を建てたのではない。それぞれ自分の生活を営む場としてふさわしい家を建てた。私たちは自分なりに人生の計画と目当てをもって生活をします。自分の人生を大切にし豊かなものにしたいと願って、精一杯働き生きていく。次に、二人とも家を建てた場所がほぼ同じでした。一方が山の上に、他方が川の中洲に、ではない。この時代は上下水道完備の時代ではない。水を得られやすい川の畔、泉や湖の畔に家を建てた。隣り合わせであったかどうかは分かりませんが、同じような環境に置かれていました。第3は、家を建てた場が同じですから襲ってくる災難や試練も同じです。どちらの家に対しても「川の水が洪水となって押し寄せる」のです。現実にこの世界で受ける災難や試練は千差万別です。同じ形、同じ程度の災難に遭うことはありません。しかし、試練に遭ったことのない人はいない。究極的には「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」のです。
しかし、「洪水になって川の水がその家に押し寄せた」時に、それぞれの家屋が辿った結果は異なった。一方の人の家は「しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」。もう一方の人の家は「たちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。「引きちぎれ、バラバラに粉砕された」。同じように家を建てても、災難に遭った時に結果が大きく異なった。一方は人生の試練に耐え、さらに神の裁きにも揺るぐことなく持ちこたえ、神の国へと継続していくのに対して、他方は試練の時にくずおれ、折角の人生の努力が虚しいものとなってしまうということです。
同じように「主よ、主よ」と主イエスを呼び求めて生きようとしたにもかかわらず、どうしてこのような結果になったのか。それが、この箇所で主イエスが語ろうとしていることです。二人に決定的な違いがあった。二人の結末の違いは、その土台の違いです。一方の人は「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた」。たいへん丁寧なやり方です。深く掘り下げた。岩盤が現れてくるまで掘り下げた。そして岩盤の上に土台を据えた。時間も費用もかかった。しかし、この人は土台を据える作業に時間と費用と労力を惜しまなかった。
問題はその土台です。人生の土台はイエス・キリストです。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(Ⅰコリント3:11)。「この土台の上に」、私たちはそれぞれの人生を建てていくのです。しかし、主イエスが語ろうとしているのは、人生の基礎はキリストであるというだけのことではない。両者は共に「主よ、主よ」と主を呼んで生きる歩みをしているのです。
「岩の上に土台を置いた人」は「わたしの言葉を聞き、それを行う人」と言われ、「土台なしの人」は「聞いても行わない人」と言われています。ここから何か行うこと、実行、実践が大切だと受け止める人もいます。しかし、単なる実践の大切さではありません。「聞いて、それを行う」ということは1つのことです。聞くことと行うことが結びついている。イエス・キリストに正しく聞くこと、そのキリストの御言葉に従って生きることが、「聞いて、それを行う」ことです。御言葉を中心にして信仰生活をするのです。この基本が判らないと「土台を据えた」とは言えないのです。
キリストの言葉を聴くとは、ただキリストの言葉に耳を傾けているというだけのことではありません。キリストの御言葉を聴くことは、キリストに従うことを産み出すのです。キリストに従うことを産み出さないような聴き方は、本当には聞いていないのです。私たちは本当に福音を聞いているでしょうか。「聴従」という言葉があります。聴いて、その聴いた御言葉に従って生きるのです。聴くことが従うことを生み出すのです。
キリスト教信仰は内心の信仰と共に、生活において証しされる信仰です。内心で信じていたら、それでいいのではありません。戦前、戦中、国は信仰の自由を一応許していました。しかし、日本国民である以上、神社に参拝しなさいと強制した。何を信じていてもかまわない。しかし、国民である限り、神社参拝が求められるのだとした。内心の自由と外面の服従とを使い分けした。戦前の日本のキリスト教会はほとんどがそれを受け入れてしまった。キリスト教信仰を内面の信仰とし、外面では国民儀礼としての神道儀式に従うことになった。その結果、教会は大きな罪を犯したのです。キリスト教信仰は、信じる信仰が同時に生き方に現れる信仰です。これを有神的人生観と言います。信仰が人生全体を首尾一貫して貫く信仰です。信仰と生活とが一つに結ばれている。これがキリスト教信仰なのです。