8月25日礼拝説教 「婦人たちの奉仕」

               2013年8月25日

婦人たちの奉仕

 

 福音書には旅日記の性質があります。旅の中で、主イエスの教えがなされ、いやしなどがなされたことが記されます。ルカは主イエスの旅の一行の中に、女性でなければ出来ない細々として心配りをもって仕えていた人たちがいたと記します。これがルカ福音書の特色です。

 ルカは、これら女性たちの中から3人の名前を記しています。おそらくルカ自身もよく知っていた女性、当時の教会の人たちもよく知っていた名前です。先ず「マグダラの女と呼ばれるマリア」です。次に「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。ヘロデの宮殿に仕えていて人の妻でした。3番目の「スサンナ」については何も判りません。これらの人はよく知られていた女性でした。「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と記されます。名前があがっている女性たちだけでなく、おそらく交代しながら多くの婦人が主イエスの旅に同行して主イエス一行をサポートしていたのです。

 「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。ルカは、主イエス一行の旅の実際の姿、裏方の姿をこのような簡単な言葉で私たちに垣間見させてくれるのです。特別なことではありません。日常のありふれたことです。そのため他の福音書では割愛してしまったのでしょう。しかし、ルカは大切なこととして記したのです。日常の生活、毎日やっていることですが、これなしには生活できない。食事のお世話をする。着るものについて気をつける。お金の出し入れをする。

 皆さまが少し長い外国旅行をすれば、お分かりいただける。汚れた衣類を、いつ、どこで洗濯するか。お金の残りがどのくらいあるか。喉が渇いた時にどうするか。いつも気にかかることです。主イエスが手品のように奇跡を行っておられたわけではありません。一行の食べること、着ることなどの煩わしいことを全部引き受けていたのが、この婦人たちでした。彼女たちがいつも傍らにいて、これら煩わしいことを引き受けていたから、主イエスの伝道の旅が続けられていったのです。今日の言葉で言うと「ロジスティク」です。補給、後方支援活動です。

 このような主イエス一行の伝道の旅の姿が、後の初代教会の活動の原風景を形づくっていったのです。やがて使徒のペトロが主イエスと同じように巡回伝道に出かけます。すると、ペトロの妻がその巡回伝道に付き添ったようです。初代教会の人たちはよく一緒に食事をしました。皆が共に過ごし、共に食事をしました。その時に、だれが食事などの面倒を見るのか。女性たちでした。女性たちが群れの中で大切な働きを担っていたのです。初代教会の活発な教会の支援活動は、主イエスの伝道の旅から続いているものであったということを、ルカは記したかったのです。

 教会の歩みは、このような女性たちによって支えられてきた。改革派教会でも戦前からの教会があり、80年史、100年史などを出すようになった。それらには歴代の牧師の名前や写真、先生方の論文や伝道の事績などが記されている。しかし、そういう記録を読む度にそこには記されていない多くの人たち、特に女性たちによって担われてきた背後のことを思い起こさざるを得ない。戦前の教会では牧師が徴兵されたり、群れが散ってしまった時、ごくわずかの女性で礼拝が守られてきた歴史がある。長い歴史の中では無牧の時もあった。そのような時に、群れを支えたのは役員たちだけではない。礼拝を休まなかった婦人たち。集会の陰で食事のために台所に立っていた人がいた。掃除を忠実にしてくれた人がいた。病んでいる教会員を見舞ってくれた人がいた。このような地道な婦人たちの隠れた奉仕によって教会は成り立ってきた。その積み重ねが教会の歴史なのです。

 素直に、素朴に福音書をお読みいただきたい。すると、主イエスが徹底的な男性中心であった当時のユダヤ教社会の中で、どれほど女性たちを重んじていたかがよく分かります。主イエスの教えと交わりの中で女性に対する差別は全くありません。主イエスは例え話の主人公にも女性を登場させます。10枚の銀貨を無くした人が徹底的に掃いて捜し求めるのは男ではなく女です。ヤコブの井戸の側で永遠の命について親しくお語りになられた相手はサマリアの女でした。マルタとマリアの家に客になり親しく交わり、主イエスの足元に座り込んで御言葉に聞き入っていたのはマリアでした。ヤイロの娘をいやし、長血の女の触れるのを許し、異邦人の女の信仰を賞賛しました。数え上げていくときりがありません。

 長い間、ユダヤ人が聖書の基本的な道筋から誤った方向に落ち込んでいた女性に対する偏見と差別を、主イエスは回復してくださったのです。旧約の冒頭で「神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)との最も基本的なところに立ち戻らせてくださった。キリスト教会はこのキリストの御心をしっかりと確認しなければならない。男も女も共に一緒に協力して教会のすべての営みを責任的に担うのです。これはユダヤ教のシナゴーグの在り方とはまったく違っているのです。ルカは、新しいキリスト教会の営みは、主イエスご自身の旅の中から生み出され、始まっているのだと記しているのです。

 この女性たちは何を意識して主に従ったのでしょう。悪霊を追い出していただいた、病をいやしていただいた女性たち、その中のマグダラのマリアという書き方です。肉体においても魂においても病んでいた。それが赦され、いやされた。ここに記されている婦人たちです。そのような婦人たちがが、いつの時代でも自分の持ち物と賜物とを捧げて、主と教会に仕えて生きた。このような女性たちによって、主イエスの伝道の旅も支えられ、初代教会も支えられ、今日の教会の営みも支えられているのです。