9月15日礼拝説教 「イエスの真の家族は誰か」

           2013年9月15日

聖書=ルカ福音書8章19-21節

イエスの真の家族は誰か

 

 夫婦、親子、兄弟という自然の人間関係を大切にすることは大事なことです。しかし、この自然の人間関係は決して人を救うものではありません。夫婦、親子、兄弟という関係の中で互いに助け合うことはすばらしいことです。助け合っていかねばならない。そのための家族です。しかし、このすばらしい関係は同時に負い目ともなる。人の自由を奪い、つまずきを与え、憎しみに憎しみを加えるようなことも起こる。

 それに対してまったく異なる新しい人と人との関わりがあるのです。それがキリストを中心とした交わりです。教会の交わりです。「キリストを中心とした交わり」は、この世の他の多くの交わりと、どこがどう違うのか。私たちはよく考えておかねばならないのです。

 主イエスがガリラヤ湖畔で教えておられた時のことです。「イエスのところに母と兄弟たちが来た」。なぜ、この時、家族の者たちが来たのか。マルコ福音書3章21節では、「イエスは気が変になっている」と言われて、身内の人たちが取り押さえに来たと記されています。ルカ福音書には理由は記されていないが、そういうことでした。主イエスの周りには大勢の人たちが集まっています。母と兄弟たちは、主イエスに近づけないし声もかけられなかった。けれど、それに気付いた人がいた。「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と知らせた。この知らせは、主イエスにそっと知らされたのではなく、周囲の人たちにも分かる大声で知らされたのではなかったでしょうか。周囲の人たちも「イエス様のお母さんや家族、身内の人たちが来ていらっしゃる」と分かったでしょう。

 その知らせを受けて、主イエスもまた、おそらく周囲の人たちによく聞こえるように大きな声で言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。

 このイエス様の言葉を聞いて、皆さまはどうお感じになりますか。はじめての方がこういう個所を読むと、イエスというお方はなんと家族に冷たい方かと誤解してしまいかねません。主イエスのこれらの御言葉は決して家族に対する冷たさを示すものではありません。主イエスは十字架に付けられた時、苦しい息の中でご自分の母親マリアのために配慮し弟子に託しているほどです。キリスト教は決して家族を軽視したり、見捨てたりする信仰ではありません。むしろ、家族を大切にすることを勧めています。

 では、この「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」という御言葉の意味はどういうことなのでしょうか。その1つは、主イエスの御言葉を聞く人たち、あるいは弟子たちの心の中の「ある思い」に対しての配慮としての言葉です。主イエスの家族が来たという声を聞いた人の気持ちの中には、家族に対するある特別な位置が占められていたのではないでしょうか。「イエス様の家族は別だ」と。主イエスの御言葉を聞いても、主イエスの弟子になっても、肉親の親兄弟のような親しい関係にはなれないという思い込みです。主イエスを宿した胎、イエスに乳を飲ませた母親、一つ屋根の下で寝起きした兄弟たちは、自分たち弟子たちがどんなにイエス様に親しくなっても限界がある、と。

 主イエスは決してそうではないと言われた。もし、イエス様の家族は別だということだと、信仰者はどんなに主イエスを真剣に信じても、親子兄弟という自然の関係には勝てないことになります。さらに突き詰めて言えばユダヤ人は別だということにもなる。血の論理です。血によるアブラハムの子孫には勝てないのだとなる。それでは新約の教会は成立しなくなるのです。信仰よりも血のつながりが優先することになってしまう。主イエスは決してそうではないと言われたのです。キリストとの親しい交わりに入るのは、血筋によるのではない。ですから、主イエスは大きな声で人々によく聞きとれるようにお答えになられたのです。

 第2に、主イエスはここでキリストの真の家族は何によるのか、何を構成要件としているのかを明らかに語られたのです。それは「神の言葉を聞いて行う人たち」であると言われた。福音書記者ルカによれば、この個所は種まきの例えの結論、神の言葉を聞くことの総まとめ、祝福として記している。キリストとの関係は神の言葉を聞くところに始まります。キリストとの交わりは、親子であるか兄弟であるかと言うことはまったく関係ない。あるいはアブラハムの子孫としてのユダヤ人であるかどうかということも関係ないのです。この主イエスの御言葉は当時のユダヤ社会ではまことに革命的な言葉でした。神の御言葉が語られ、聴かれるところで、新しい家族、新しい交わり、新しいコミュニティ-が形づくられるのです。

 神の言葉を聞くことがキリストの家族、神の家族となるただ1つの条件です。キリスト教会とは、御言葉が聞かれ、御言葉に従って生きるところです。主イエスは「神の言葉を聞いて行う人たち」と言われました。聞きっぱなしではなく、御言葉の通りに生きることです。神がアブラハムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と命じられると、アブラハムは黙って従います。これが服従です。御言葉を聞いて行うとはそういうことです。道端に落ちた種も、石地に落ちた種も、茨の地に落ちた種も、御言葉の種蒔きの恵みを受けたのです。ところが聞きっぱなしで終わってしまった。御言葉を聞くとは決して聴覚の作業ではありません。心の作業なのです。心で聞いて、私たちの人生をその御言葉に従わせることです。聞いた御言葉に従って生きることです。これが本当に聞くことであり、その結果としての祝福なのです。