10月6日礼拝説教 「悪霊づかれ二態」

              2013年10月6日

聖書=ルカ福音書8章26-39節

悪霊づかれ二態

 

 レギオン・一軍団と言う大量の悪霊にとりつかれた男のいやしの物語と、その後に彼のことで起きた町の人たちの物語がワンセットになっています。

  主イエス一行が舟でガリラヤ湖を渡ってゲラサ人の地に着いた。主イエスが「陸にあがられると」、一人の男がやって来た。この男は「悪霊に取りつかれてい」た。現代人は「汚れた霊」「悪霊」と言うと、ウソーそんなのいるわけない…、迷信だと言われてしまう。私は、悪魔と悪霊の存在を信じています。悪魔と悪霊の存在を信じると言っても、「神を信じる」と同じ意味ではありません。目に見えない悪魔、悪霊の存在を認めるというだけです。聖書がその存在を認めているだけでなく、信仰生活の中でその現実の力を経験させられているからです。現代人は目に見える物質的な世界だけを実在と考えます。他方、多くの人の関心を引くのはオカルトや超能力などの神秘的な事柄です。若者の心を奪っている新宗教は目に見える物質的世界を中心にした考え方への反動です。悪霊に取り込まれているのです。

  主イエスの出会った人は「墓場」を住まいとし、悪霊にとりつかれてしまったとしか言いようのない状況になっていた。家の人たちも彼の狂暴を押さえようとして何回も足かせや鎖で繋いだ。けれども引き千切って家を飛び出し墓場に住み着いてしまった。異常な男の姿です。この人が墓場に住んだのは生きた人間との交わりが出来なかったからです。交わりに入れない、受け入れてもらえない。人は自分が受け入れられないと凶暴になり呻きだす。家庭にも社会にも受け入れられない自我が暴力的に外に表れる。

  主イエスは彼に「名は何というか」と尋ねます。名前を聞くことは、その人そのものを問うことです。「本当のあなたは誰なのだ」と。主イエスは悪霊の故に自己を見失っている人を捜し出しておられます。この男は「レギオン」と答えます。本当の名前ではない。しかし、今ある本当の姿です。「レギオン」とはローマの1個軍団を言いました。武装兵士5千人の力に匹敵する悪霊に取り付かれてしまっていると答えた。

 すると悪霊が主イエスに求めます。自分たちを滅ぼさないでくれ、手近にいる豚の中に入るのを許してくれ、と。悪霊は、主イエスと戦って勝ち目のないことを知っています。不思議なことに、主イエスはそれを許されました。ゲラサの地は異邦人の地です。豚を飼う人がたくさんいた。悪霊は豚の群れの中に入り込みます。豚はたまったものではない。何百頭、何千頭いたのか分からないが、豚の群れが狂気に捕らわれ「崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」。悪霊も一緒に滅んだ。そしてその代わりに男は悪霊から解放されました。悪霊から解放された男は「服を着、正気になって主イエスの足もとに座っている」のです。救われたのです。

 後半は豚の群れの問題です。男の救いと引き替えに豚の群れが死んでしまった。これをどう解釈したらいいのか。私は、これはこの男の救いのための犠牲と理解します。私たちの救いのためには多くの犠牲がある。最も大きな犠牲は主イエス・キリストの犠牲です。神の御子であるお方が十字架を担ったあがないの犠牲です。実はそれだけのことではない。「自分」の救いのためにどれほど多くの具体的な犠牲が捧げられたことか、考えたことがあるでしょうか。多くの宣教師が日本に来てその生涯を捧げました。日本宣教が可能になるため多くの人が殉教しました。その歴史を踏まえて、改革派中部中会が浜松の地を選んで会堂を建て開拓伝道を始めた。牧師たちを何十年も経済的に支え続けた。多くの兄弟姉妹が何年も祈りをもって炎天下で、雪のちらつく中でチラシを配布し伝道活動を展開した。その中で人が教会に導かれ、救いに入れられます。「私」の救いのために、どれほどの犠牲が払われているか。実は膨大な犠牲が支払われているのです。

 しかし、教会はその膨大なコストを計算しません。あなたの救いのためにこれだけの犠牲、これだけのコストが支払われているのですよ、などと決して言いません。「キリストを信じて救いを得てくれて、本当に良かった」。これだけです。それは神ご自身が神の御子を犠牲にして無代価で差し出しておられるからです。その前では人のすべての犠牲は無に等しいからです。

 けれど、この犠牲・コストを計算した人たちがいた。それがゲラサの町の人たちです。大量の豚が失われた豚飼いは町々村々に巨額の損害を訴えます。同時に、主イエスの御業の「成り行きを見ていた人たち」もいた。彼らは悪霊につかれた男が正気に戻り、救われて服を着ている姿も報告した。町の人たちは2つの出来事を受け止めて判断した。経済的な損失があまりにも大きい、と。豚を飼うことはゲラサの町の主要産業でした。主要産業の1つが巨大な損害を被った。損得計算をして膨大な犠牲の故に、「恐れに取りつかれた」。町の人たちは「自分たちのところから出て行ってもらいたい」と、主イエスを追放します。経済的な恐れ、経済至上主義という新しい悪霊に取りつかれている。「わたしにかまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言ったのがレギオンにつかれた男でした。ゲラサの町の人たちは今、悪霊に取りつかれていた男と同じことを語っているのです。ゲラサの町の人たちの姿は決して他人事ではありません。経済のことしか眼中になく、経済的な繁栄を追い求めている現代人の姿なのです。

 主イエスはこのゲラサの町に救いの恵みにあずかった一人の男を恵みの証人として残されました。「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と。経済的繁栄を追求して止まない人たちへの宣教が命じられた。経済的な繁栄を追い求める世の中で、救いの御業を体験した者として福音を宣べ伝えて生きるのです。ここに私たちの使命があります。