2013年10月13日
聖書=Ⅰコリント書3章9-17節
神のために力を合わせて働く
本日は浜松教会の教会一泊研修会の日です。主日礼拝ですが研修会の開会礼拝でもあります。
パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」と記します。「わたしたち」は使徒や伝道者だけでなく、広く教会の奉仕者全体を指しています。私たち教会員すべてと理解して良い。「神のために力を合わせて働く者」は意訳です。「スネルゴイ」という一語で、口語訳では「神の同労者」、新改訳では「神の協力者」と訳しています。「神のために」というだけでなく、神と共に働く神の仲間「神の同労者」です。
さらに「あなたがたは神の建物である」と言います。信徒の群れを建物に例えます。しかも、この建物は「神の住む家」、神殿です。それが「あなたがた」であると言う。パウロはたいへんおもしろい言い方をしています。私たちは神と共に働く者、建築家です。しかし同時に、建てあげられる建造物も「あなたがた」なのだと。教会員が神の同労者として信仰生活し奉仕することは、あなたがたを神の建物、神殿として築いていくことである言っているのです。建築家であり、同時に建造物でもある。教会員一人一人が自らを神の建物、神殿を建てるのだということです。
この建物の土台はもう据えられています。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。…イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と言います。パウロは、自分は土台を据える建築家だと語る。年期の入った大工の棟梁がするように寸分の狂いもなく土台を据え付けたと語る。神の建物の土台は「イエス・キリスト」だけです。教会形成の大事なポイントがここにあります。福音の真理です。神の神殿である教会はこの土台の上に立つのです。土台の上に正確に立つためには聖書の学び、教理の学びをしっかりしていくことが大事です。
イエス・キリストという土台の上に教会を建てていく。ここに私たち・神の同労者の働きがあります。伝道者だけでなく教会員全員がこの建物を建て上げていく働きをする。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる」のです。「だれか」とは、私たち一人一人です。私たち一人一人が自分の教会を建て上げていくのです。「金、銀、宝石、木、草、わら」とは、この土台の上に建てられる建物の素材です。これら建築材料は何を意味しているのでしょうか。ある人は尊いものと卑しいもの、ある人は火によって焼けてしまうものと焼かれても残るものと理解します。
いろいろな議論がありますが、実はここで語られている「金、銀、宝石、木、草、わら」とは、物質ではないのです。これらは教会を建てあげていくための私たちの生活と奉仕の献げものなのです。献げものにはみな最初から違いがあります。人目につくような大きな献げものもあります。隠れた奉仕、人目につかないものを献げものもあります。主イエスは献げものの大小や金額などで区別なさいませんでした。レプタ2枚の献げものにおいて語られたことは金額ではなく献げる人の真実でした。「金、銀、宝石、木、草、わら」とは献げものの金額や奉仕の種類ではなく、私たちの「真実」「志」なのだと、私は受け止めています。福音の真理に立って生活すること、奉仕することが教会という神殿を立てる資材なのです。「神の同労者」を表すような生活と奉仕こそ、教会建設の素材であると言っていいでしょう。問われるのは、どのように主に仕えて生きるか、ということです。
今朝の説教題を「神のために力を合わせて働く」としました。私たちの主体的な姿勢の問題です。私たちは皆、奉仕します。その時、私たちはどのような思いで、志で奉仕しているでしょうか。感謝と喜びをもって奉仕を献げているでしょうか。しょうがない、おつきあいで、義務として、やむなく奉仕しているでしょうか。この真実が問われているのだと言っていい。同じ信仰の営みをするのでも、同じ奉仕をするにしても、人の真実と志によって「金、銀、宝石、木、草、わら」という違いが出てくるのです。
神の宮、神殿を建てるに当たって、人間的な欲望によって建てることなどあるはずがないのですが、しかし実際には起こります。自分の能力や賜物を誇り、力を見せるために伝道や教会指導をするようなこともあり得ます。どのような思いをもって奉仕しているでしょうか、謙虚に考えなければなりません。どんな思いで奉仕しているのかは、今は区別がつきません。
しかし、終わりの時に明瞭になります。信仰の営みと奉仕がどのようなものであるかが明るみに出されるときがあります。「かの日」という言葉が記されています。キリストが再びおいでになる終末の日です。それは信仰者の一切の働きが神の前に吟味されるときです。信仰者の地上における一切の働きは神の神殿を建てる業なのです。私たちは毎日、神の神殿を建て上げていくのです。礼拝の中で、奉仕活動の中でお互いに神殿建築の業をなしていくのです。神殿建築の業は神の吟味の火に耐えられるものでなければならない。神殿建築をする者は、目先の評価や基準で物事を考えてはなりません。「かの日」の吟味に耐えられるものでなければなりません。
私たちの献げる真実の奉仕は焼け落ちることはない。崩れることはありません。土台はイエス・キリストです。この土台の上でなされた真実な奉仕の業であれば、その土台のゆえに私たちは救われ、そこでなされた奉仕も受け入れられるのです。「かの日」の吟味にも耐えられるのは、この土台だけなのです。この土台こそ、私たちの奉仕の業を励まし保証するものです。安心して精一杯、私たちは主と共に神殿建築に取り組めるのです。