12月8日礼拝説教 「イエス・キリストの栄光」

             2013年12月8日

聖書=ルカ福音書9章28-36節

イエス・キリストの栄光

 

 アドベント礼拝として、人となられた神の御子の使命とその栄光のお姿をここに読み取ってまいりたい。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られ」ました。それはご自分の救い主としての歩むべき道、使命について祈りの中で確認するためでした。これから実際に十字架への道を歩み始められます。それに先立って受難の使命を祈りの中で確認されたのです。むしろ、こう言った方がよいでしょう。十字架の道を歩み抜くために激しい叫びと涙とをもって祈り抜かれたのです。主イエスはいとも簡単に十字架を担われたのではないことを知らねばならない。十字架は恐るべきもの、神から見捨てられ呪われた者の処刑なのです。

 主イエスはこの十字架への道を神に問い続けられた。これ以外に救いの道は他にないのでしょうか。十字架以外に罪人の罪を贖う道は他にないのでしょうか。実に激しい祈りの時でした。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」。これが「変貌」(顔が変わる)と言われる出来事です。主イエスのお顔と様子が変わる。着ている衣服が真っ白に輝いていた。これは、どういうことでしょうか。イエス様の着ていた衣服は当時の庶民が着ていた貧しい服装であったにちがいない。真っ白に輝くなどというものではなかった。ここに起こっているのは天の出来事、天の世界が降ってきたと言っていいでしょう。

 この主イエスの変貌を、どう理解していいのか。主イエスの十字架の受難は父なる神のご計画です。しかし、これが父からの定めであるから黙って従えというだけのことではない。御子御自身がご自分で納得しての服従でもあることです。そのため祈りの時、主イエスが元々天において持っておられた神の御子としての栄光の輝きを回復されたのです。神の御子としての栄光と主権を回復して、改めて救い主としての歩むべき道を検討し、納得して、その上で受難の道を歩むようにとしておられるのです。

 ここにモーセとエリヤとが登場しています。モーセは旧約律法を代表する人物です。エリヤは旧約預言者の代表です。「律法と預言者」とは旧約聖書を現す言葉です。父なる神は今、主イエスが天において持っておられた栄光を回復して下さったと共に、旧約の代表者たちを天から送って、主イエスの救い主としての歩むべき道について検討し、確認し、励ましておられるのです。モーセもエリヤもその使命の遂行のために苦難をしいられた人たちでした。この二人が揃って主と何を語り合ったのでしょうか。それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」でした。

 「最期」と訳されているギリシャ語の言葉は「エクソドン」です。エクソドスです。「出て行くこと、世を去ること、最期」と訳される言葉です。ですから、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」とは正しい訳し方です。ただし、この最期が人生の最期だけでなく、旧約では出エジプトの出来事を指す言葉であることに気がつかねばならない。福音書記者ルカは二つの意味をかけている。主イエスの生涯の最期の出来事の中に出エジプトの出来事を見ているのです。主イエスの人としての最期は神の民の救済の出来事だという理解です。主イエスの受難の出来事は、新しい出エジプトとして理解されているのです。

 旧約を代表するモーセとエリヤは、主イエスと共に救い主の歩むべき道を改めて検討し、十字架の受難の道こそが神の民の救いの道であることを確認したのです。キリストの受難の道こそが旧約の最初から啓示されてきた神の救いの道であることを確認したのです。キリストによる十字架の贖い。これこそ、まことの出エジプト、エクソドスの出来事なのです。

 主イエスはこの時、神の御子の栄光を回復されて「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」。それはこの十字架の最期を選び取られていくお方としての栄光でもあります。単なる神の御子の栄光というだけでなく、十字架への道を選び取られた主の栄光のお姿なのです。これから主イエスはまっしぐらにまことに惨めな死に方である十字架への道を歩まれます。人間の目から見たら、そこには何の栄光も見えません。鞭打たれ、引きずり回され、罵られ、辱められ、罪人として処刑され、墓に葬られます。どこにも栄光などはありません。しかし、神は十字架を担って最期を遂げられる主イエスを栄光に輝かせて下さっておられるのです。キリストの栄光は十字架を担うところにあるのだと。

 主イエスがこの山に3人の弟子を伴われたのは、彼らを主の栄光の証人とするためでした。ところが居眠りをしていたのです。3人の弟子たちにとっては狐につままれたような感じではなかったでしょうか。しかし、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う、父なる神の声が雲の中から聞こえました。これは弟子たちに対して語られています。十字架への道を歩む主イエス。受難のメシアの道を歩む決意を明確に固めてくださった主イエスこそ、まことの救い主です。このお方こそ、神が選んで遣わしてくださったまことの救い主であるという天からの確証のみ声です。「その通りだ。この十字架を担うキリストこそが神の選んだ神のメシアなのだ」と天におられる父なる神が裏書きしておられるのです。今、私たちは「このお方に聞く」ことが求められています。私たちは他のどこかにすばらしい救い主はいないかと尋ねる必要はない。この十字架を担ってくださった主イエスだけがまことの救い主であり、このお方以外に私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて神の子らとしてくださるお方は、他にいないのです。