12月22日礼拝説教 「飼い葉桶の中の救い主」

           2013年12月22日

聖書=ルカ福音書2章1-12節

飼い葉桶の中の救い主

 

 クリスマスは喜びと祝福の時です。しかし、この喜び、祝福の意味がなかなか理解されません。クリスマスの本当の意味は隠されているのです。

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」。ユダヤの人々にとってローマ帝国の圧力を最も強く感じた時でした。暗黒の時代が到来していることを感じた。政治的にも経済的にも明るい材料は何ひとつない。この世俗の権力にもてあそばれるようにして一組の若い夫婦、ヨセフとマリアが百数十キロの旅をしなければならなかった。彼らにとって、ナザレからベツレヘムへの旅はきついものでした。

 その中で1つの出来事が静かに起こっていました。この世の力によって強いられた事柄の中で、神のご計画が静かに進められていることを見るのです。神は昔から多くの預言者を通して救い主の誕生を約束してくださいました。「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と、預言者イザヤは救い主の誕生を告げていました。その預言され約束されていた出来事が、ローマ皇帝の支配する歴史の中で実現しようとしている。クリスマスの1つの意味は神の約束・預言の成就です。しかも、この出来事が静かに人知れず起こっているのです。

 住民登録で出身地に戻るため、ベツレヘムの町はごった返していた。人の移動が激しくない時代ではあっても、やはり人は動きます。その騒ぎの中に、一組の若い夫婦がベツレヘムの町に到着した。ヨセフと許嫁の妻マリアです。彼女は身ごもっていた。まもなく「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」のです。これがクリスマスの出来事、救い主誕生です。

 国家権力によって人々が右往左往していた時に、ひっそりと一人の幼子が生まれたのです。町の人から祝われることはありません。無関心です。ひそやかに生まれたと言っていい。「飼い葉桶」は貧しさを表す言葉です。貧しい農民や牧畜をする人たちでも生まれる我が子のためにはゆりかごを用意した。ところがマリアから産まれた赤ちゃんにはその最低限の用意もなかった。宿に泊まることも出来ない。馬小屋で雨露をしのぐ状態でした。そして、牛馬のえさ箱である飼い葉桶がこの赤ちゃんの最初の寝床でした。この赤ちゃんはまことに貧しさの極みの中に生まれたのです。

 けれど、天使は羊飼いたちに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げている。このベツレヘムでマリアからひっそりと生まれた赤ちゃんが実は救い主である。メシア・キリストであると告げる。ここに神のなさる御業、救いの不思議さがあります。貧しい、みすぼらしさの中に、神が身を低くしてくださった。神が高くいまし栄光に輝くのではなく、神が身を低くして、神の御子が幼子となってくださったことがクリスマスです。それは私たちに神が寄り添ってくださるためです。クリスマスの時に「インマヌエル」という言葉が語られる。「神が我らと共にいます」という意味です。クリスマスは、私たちのところに、私たちに寄り添ってくださるお方が来たということです。権力に圧迫されて苦しむ者たち、多くの悩みで生きることの苦しみを味わっている人たち、家を失い貧しく土の上で過ごさねばならない人たち、病で苦しむ者たち、こういう弱さと痛みを身に負って生きる人たちに寄り添うために、この幼子は飼い葉桶の中に身を置いたのです。

 しかし、少し視点を変えて考えてみることも必要です。本当は貧しく惨めであったのは、イエスの誕生の時に最も良い場所を提供できなかった宿屋の側、人間の側ではなかったのではないか、ということです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と記されている。この時、ベツレヘムの街にどのくらいの宿屋があったのか分かりません。むしろ多くは一般の民家が旅人に宿を提供した。数軒の宿屋の問題ではない。この貧しい臨月の夫婦に対して「どうぞ、お泊まりください」と、泊めてあげようという家がベツレヘムには一軒もなかったのだと、ルカは記しているのです。「彼らの泊まる場所がなかった」との言葉は、救い主の誕生を巡る客観的報告の言葉と言うだけのものではない。この幼子の生涯全体についての福音書記者ルカの感想の言葉なのです。救い主である親子を迎え入れてくれるだけの家はなかった。キリストの到来は歓迎されなかったのだと言っているのです。ヨハネ福音書では「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:11)と記しています。ここに私たち人間の貧しさ、惨めさが露わになっている。貧しいマリアとヨセフ、そして幼子を歓迎しない人間の惨めさです。救い主を閉め出し、主を迎え入れる場所を持たない私たち人間、罪人の惨めさがここに示されているのです。

 トラクトやチラシ配布をすると、時に訪問販売と間違われ「間に合っている」と言われ追い払われることがある。象徴的な意味を持つ言葉です。今日、世の人たちは充足している、満たされているのです。キリスト以外のもので満たされているのです。キリスト以外のものに心を奪われてしまっている。ですから、神が与えようとしているまことの救いに気付かないでいるのです。飼い葉桶に寝かされている幼子は「しるし」と言われます。神が罪人を愛し、顧みてくださったしるしです。神が人の世を訪問してくださったしるしです。この「しるし」の中に、神の愛を見るのです。貧しく人となられた幼子の中に、寄り添ってくださる神の到来を見ることが出来る人が幸いなのです。悩みの中にある人たち、病の中にある人たち、苦しみの中にある人たちが、キリストの到来と救いの必要に気付くです。