2014年3月23日礼拝説教 「しつように祈れ」

             2014年3月23日

聖書=ルカ福音書11章5-13節

しつように祈れ

 

 主イエスは祈る者の態度、祈り方についても教えられました。1つの例え話を語られた。ある人に真夜中の来客があった。この来客は夕食も食べていなかった。腹ぺこで友人の家に転がり込んできた。ところが、この家にもひとかけらのパンも残っていなかった。そこで、この人は親しくしていた近所の友人のところに行って頼む。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」と。当時の庶民の家は大きな一部屋です。そこに家族と場合によっては家畜まで寝ていた。暗い中でぎっしり寝ている家族をまたいで台所に行き、パンをさがし、戸のかんぬきを外してやるのは、たいへんなことです。ご勘弁願いたい。友人が頼みを断ったのも無理からぬことです。

 主イエスは言われた。「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。これが主イエスの祈りの勧めです。熱心に祈ることを求めておられます。「友達だからということでは」について、ある人は友情なんてこんなに薄いものだ、自分に迷惑がかからない範囲でのことだと言います。これは友情理解の方向が違う。パンを借してほしいという願い自体、友情の関係を土台としている。友人関係を土台にして、「しつように頼む」ので、起きてパンを貸し与えるのです。まったく見ず知らずの人であるなら、パンを貸して欲しいという願い自体が成り立たない。「面倒をかけないでくれ」と言っても、一度起きてしまえば必要なものを貸してくれる。友情はこんなものではなく、友人関係が土台になっているのです。

 「パンを貸して欲しい」と頼まれた友人に例えられているのは神です。祈りは友人関係よりもはるかに深い関係を土台にしている。しかし、神を父と呼ぶ関係で自動的に恵みを受けるのではない。父と子の関係を土台にして「しつように頼む」時に、祈りは聞かれる。「祈らずとても、神や知るらん」と、神は全知全能で必要なものは何でもご存じだから、あれ、これを欲しいと祈らなくても与えるはずだと祈らないのは人間の横着な考え方です。親は子の必要を知らないのではなく、子が求めて来る祈りの交わりを求めています。父と子の関係が土台にあって祈り求めがなされるのです。

 ここで求められているのは継続的、熱心な祈りです。注意すべきは「しつように頼む」と訳された言葉です。「しつこく、厚かましく、うるさく、ずうずうしく」と訳していい。祈りの熱心さをこのような言葉で、言い表している。厚かましい、恥知らず、ずうずうしいと罵られてもかまわない。それくらい熱く懸命に祈ることが必要なのです。私たちの祈りはあきらめやすい、淡泊な祈りと言ってもいい。何回か祈って答えが見えてこないと、神は祈りに応えてくれないとひねくれたり、失望したりする。私の祈りは御心にかなわないのではないかと先回りして腰砕けてしまう。

 主イエスは、厚かましい、恥知らずと罵られてもかまわないではないか、したたかに、しつこく祈れと言われている。詩編第13編の詩人は「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」と訴えます。神は私のことなど忘れているのかもしれないと思う。しかし、その中で「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください」と訴えることを止めない。このような訴え、祈りが応えられる。この詩編の作者は終わりで「主はわたしに報いてくださった」と賛美をもって閉じている。失望のどん底からでも、神に訴え続ける。しつこく、厚かましく祈り求めようではありませんか。

 主イエスは、ただ熱心に祈れと命じるだけではありません。祈りは聴かれることを約束してくださいます。それが9-10節です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。…だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。求めるものを得ると言われている。祈り求めが叶えられる。神は忍耐深く祈り続ける者の願いに心を動かしてくださることを確信して良いのです。

 祈りに対する神の応えの確かさが、もう一つの例えで語られます。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。人間の父親は子どもに対する愛情の面でも不十分です。しかし、不十分な人間の親でも自分の子どもには良きものを与える。害になるようなものを与えることはない。まして天の父となって下さったお方が、神の子である者が真剣に求めてくる時に、それを拒むことは決してないのだ、と言われた。祈りは聞かれる。この確信を持つまでにしつこく祈り続けたい。

  最後に、主イエスは最も良い贈り物に目を向けさせてくださいます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。神の贈り物の最もすばらしいものは主イエス・キリストご自身です。このキリストを信仰をもって受け入れることの出来るのは聖霊のお働きです。信仰者が祈りを捧げて神にすべての求めを申し上げることが出来るのも聖霊です。聖霊は、祈りの答えに気づきを与えてくれます。聖霊は神の御倉を開ける鍵です。聖霊が与えられて、私たちはキリストを得ることが出来、祈ることが出来る。聖霊を与えられたら一切を与えられたと言っていいのです。健康が支えられること、仕事がうまくいくこと、結婚や家庭がうまく治まること、対人関係がうまくいくこと、生活が支えられることなど、祈りの課題はたくさんある。しかし、そのすべての祈りを支え、祈りを導いてくださるのは、祈りの霊である聖霊なのです。聖霊に満たされて祈り続けましょう。