2014年3月30日礼拝説教 「神の国は来ている」

             2014年3月30日

聖書=ルカ福音書11章14-26節

神の国は来ている

 

 主イエスは弟子たちを伝道に遣すと共に、ご自身も悪霊を追放し伝道しました。「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めた」。主イエスの救いは極めて現実的なものです。精神的、心の中だけのことでなく、具体的に口の利けなかった人がものを言い始めたのです。失語症がいやされただけではない。コミュニケーションが成立した。キリストによる救いは人の生活を変えるのです。閉じこもって社会に適応できなかった人が造り変えられ、交わりに生きる者とされた。これが救いです。

 この主イエスの活動を見ていた人の中でケチを付ける人がいた。「『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者がいた」。イエスは悪霊の頭だから悪霊が従っているのだという攻撃です。聖書の学者は、この攻撃をした人は悪魔払いを生業としていた当時の医者ではなかったかと解釈しています。そうかもしれません。自分のところに来るべき患者がイエスの方に行っていやされてしまう。それを見て妬ましく思った。しかし、妬みは人の目を真実からそらせてしまいます。主イエスの力によって人が救われていく光景を見て一緒に喜ぶのではなく、妬んで攻撃した。

 この攻撃に対して、主イエスは彼らの愚かさを指摘します。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。悪霊の頭が悪霊を追い出すとは、内部分裂、自滅行為です。悪霊同士で争ったらサタンの国が潰れてしまう。サタンでもそんなことはしないだろう、と主イエスは皮肉を言われた。まことに愚かしい議論と言っていい。妬みや反感からは真実を見ることが出来ません。主イエスのなさっている救いの御業は、妬みや反感からでは、今日の私たちも見誤ってしまう。救いを得るためには素直な心が大切です。

 次に、主イエスは改めてご自分の御業の意味を語られた。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスの奇跡、悪霊追い出しの奇跡は、神の国が今、ここに来ていることの確かなしるしだと言われた。「神の指」とは神の御力のことです。「神の国」とは「神の恵みの支配」のことです。

 「強い人」とは悪霊の比喩です。かつても今も「強い人」と言われている悪霊に人間はがっしりと押さえ込まれている。人間の力と理性ですべてを理解し解決できると考えている現代人に悪霊が存在していると言うと笑われるかもしれない。しかし、悪霊は目には見えないが現実に存在している。人間の背後にあって、人間ではどうすることも出来ない力がある。近現代の人間は自分の足で立っているように思える。しかし、神から離れた人間の自我は悪霊にがっしり押さえ込まれている状況です。今日の人間の病理はここから来ていると言ってもよい。神を離れた自我に生きる人は永遠の死に至る病に冒されている。それが見えていないのが現代人です。

 しかし今、ここに「もっと強い人」が現れた。神の御子であるキリストです。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と、主は言われた。キリストは悪霊よりもはるかに力強い。キリストは神の力で人間を捕らえている悪霊を追い出してくださいます。その1つの具体例が「口を利けなくする悪霊」の追放でした。モーセはエジプトの魔術師たちと戦います。その時のモーセの力ある働きを示す言葉として「神の指」という言葉が用いられます。生きて働く神の御業を示す言葉です。モーセが偉大な神の力を発揮してエジプトからイスラエルの民を救い出したように、今、キリストは神の子としての力を振るって人間をこの世の悪霊から解放してくださるのです。

 今日、キリストはどのようにして神の力を振るってくださるのか。私たちも悪霊払いをするのでしょうか。決してそうではありません。キリストは、どこにおいて神の指を示されたか。神の力を最も大きく振るわれたのは十字架と復活です。十字架において、キリストは神の御子としての力を振るって全人類を押さえ込んでいる悪霊の力を打ち破ってくださった。ここに神の恵みの支配、神の国はあるのです。キリストに出会い、キリストを信じるところで悪霊の力から解放されるのです。キリストの十字架と復活に神の指がある。キリストを信じるところで悪霊の力は打ち破られ、神の恵みが支配している。ぜひ、キリストを信じていただきたい。

 もう1つの例えです。この例えはキリストによって救われた後のことです。悪霊から解放され救っていただいても、キリストに繋がり続けていないと以前より悪くなってしまう場合が起こる。洗礼を受けたが、まもなく教会に来なくなってしまう。信仰から離れてしまう。このような場合、信仰を持つ前よりも状況は深刻になる。人は、神か悪霊かどちらかにつく以外無いのです。キリストによって悪霊から解放され、救っていただいた。その心の中に神の霊を宿し続けるのでなければ、再び悪霊のとりこになる。悪霊から解放された心の中に聖霊を宿すのでなければ、魂はさらに多くの悪霊のすみかになってしまうことが起こるのです。私たちは自分の力で悪霊と対決して勝利する力はありません。悪霊よりも強い神の霊、聖霊に宿っていただかねばならない。「キリストにつながり続けること」以外ありません。キリストにつながり続ける。それは「恵みの手段」を忠実に用い続けることです。み言葉、礼典、祈りです。いつも祈り、忠実に礼拝に出席し、心を聖霊で満たしていただく以外に道はありません。