2014年4月13日礼拝説教 「あなたは十字架に何を見るか」

              2014年4月13日

聖書=マタイ福音書27章45~50節

あなたは十字架に何を見るか

 

 受難週の礼拝です。司式者によって讃美歌21と交互にお読みいただいたのはマタイ福音書からの主イエスの受難の記事です。「マタイ受難曲」とか「ヨハネ受難曲」という壮大な楽曲があります。これら楽曲の源泉はヨーロッパ中世の教会で受難週の時期に聖書の朗読と賛美が交互になされる礼拝の営みの中から生み出されてきたものです。一人の指揮者のもとに、聖書朗読者と聖歌隊の賛美が交互になされる様を想像していただけたらと願っています。中世の教会では会衆讃美がほとんど失われてしまいましたが、宗教改革で会衆讃美が回復しました。会衆讃美による讃美礼拝が私たち浜松教会で、これからも時折、できたらすばらしいと思っています。

 この賛美礼拝のため、説教はある一点に集中します。「あなたは、十字架に何を見るか」です。福音書が物語る主イエスは栄光の神の子ではなく十字架で惨めな死を遂げる姿です。これは十字架の出来事だけのことではない。主イエスのご生涯の全体がイザヤ書53章の告げる「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない」ものであり「軽蔑され、人々に見捨てられ、打ち砕かれた」姿でした。その極限の姿が十字架です。福音書は、十字架にかけられたイエスを描いて、これを見よ、あなたはこのイエスに神の子を見ることができるかと、問いかけているのです。

 私が高校生の時代は予科練帰りの先生がいました。牧師にも軍隊帰りが多かった。特別伝道集会の時、ある講師は人の首をはねる時には血がこういう風にパッと噴き出すんだと、イエスが十字架に付けられた苦しみを実況しました。10年ほど前に「パッション」という映画がありました。福音書に基づくリアリティ溢れる映画という触れ込みでした。確かにイエスを十字架に釘づける状況を克明に描く。「ゴン、ゴン」と釘を打つ音が極めて印象的に用いられて、目を見開いて見続けることが困難なほどでした。

 しかし、いずれの福音書もこのようなリアリズムを採らないのです。確かに十字架に架けられた惨めな姿を示す。けれど、主イエスの顔がどんなにゆがみ、釘づける時にどれほどの血が流されたのかというようなリアリティは一切記していない。福音書記者は描こうと思えば、いくらでも書けたでしょう。しかし、そこに福音書記者の関心はないのです。では、福音書は主イエスの十字架において何を描こうとしているのか。

 主イエスの十字架において、私たちが見るのは「見捨て」です。見捨てられたイエスの姿です。ユダヤ人が「十字架につけよ」と叫びます。同胞のユダヤ人から見捨てられたユダヤの王です。主イエスはご自分の弟子たちにも見捨てられました。ゲッセマネの園で逮捕されると、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。弟子の一人ユダによって、奴隷ひとりの値段である銀貨30枚で売り渡されました。それだけではない。

 実は、福音書が最も力を込めて描こうとしているのは、神によって見捨てられたイエスの姿です。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。ここには、あり得ないことが起こっている。神の御子が、父なる神によって見捨てられている。主イエスは罪人の身代わりとして人間のすべての罪を身に負って十字架を担われました。この主イエスが担う罪に対して、神は全人類の罪に対する怒りと呪いを圧倒的に注いでおられるのです。

 けれど同時に、この十字架に神の深い愛とあわれみとを見るのです。見失われている人間に対する神の深い愛が、ここにあることを示そうとしているのです。主イエスは罪のないただお一人の人でした。その罪なき主イエスが、なぜ、このように人からだけでなく、神からも見捨てられねばならなかったのか。それは主イエスが私たちすべての者の罪を担われたからです。コリント第2の手紙5章21節にこう記されています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

 主イエスは私たち人間のすべての罪を背負って十字架に架かっておられるのです。この主イエスに対して神は徹底的に裁いているのです。神は、人間の罪と汚れとを全て焼き尽くさずにおかない義にして聖なるお方です。真実の救いは、罪を罪として徹底的に裁くことによってなされるのです。しかし、この裁きを、罪人である私たちに対してでなく、罪なき神のみ子イエス・キリストに対して下しておられるところに神の愛とあわれみとがあるのです。神の罪に対する裁きは、具体的に「神の見捨て」としてなされました。父である神との交わりが一切断たれたのです。滅びとは、神の見捨てなのです。神から見捨てられることが滅びです。罪人は神に見捨てられて滅びる。主イエスは罪を負われ、罪そのものとなられて、今、神に裁かれ、見捨てられて滅びを体験しておられるのです。

 私たちは、主イエスの十字架に何を見るか。神の人間の罪に対する処罰としての見捨てを一身に受けておられる罪人の惨めさです。この惨めな十字架の主イエスによって、私も、あなたも、救われるのです。私たちの救いは、この十字架にあります。私たちは、ここに神の愛が極みまでも示されていることを見るのです。このキリストの十字架に神の愛が示されている。御子をお与えくださることによって示された神の愛をしっかりと受け止めてまいりたい。ヨハネ福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスを信じて主イエスと結ばれるならば「あなたの罪は赦された」と、神ご自身が宣言して下さいます。