2014年4月20日礼拝説教 「復活の主との出会い」

            2014年4月20日

聖書=ヨハネ福音書20章19~23節

復活の主との出会い

 

 主が復活された日の夕のことです。弟子たちは主イエスを捕らえて処刑したユダヤ人を恐れていた。理由があります。朝早く墓に行った女たちから知らされた。主イエスを葬った墓に遺体がないという報告です。マグダラのマリアから生ける主にお目にかかったというニュースも耳にはした。しかし、とても信じられることではない。弟子たちは最初からキリスト復活を信じていたわけではなかった。イエスを殺しただけでなく、体をさえも辱めようとしていると受け止めた。イエスの弟子として一緒に行動していた自分たちをも捕らえに来るだろう。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。戸に鍵をかけて、息を殺して潜んでいた。戸を閉じ鍵をかけることで、ひとまず心の平和を得ていた。この安心は現実に目を向けない一時のものにすぎません。

 するとそこに、主イエスが突然現れて、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。これが復活の主イエスとの出会いです。戸は閉められたままです。「平和」とは「シャローム」です。シャロームは今日、イスラエルでよく使われています。日常の挨拶の言葉で「こんにちは」です。ヨハネ福音書ではこの言葉は単なる挨拶ではありません。ヨハネ福音書14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と語られた言葉と関連しています。主イエスが去って行かれる時に約束した「平和」「シャローム」です。どんな時にも神が共にいますという確信に立つ祝福、安心、穏やかさ、満足、信頼の状態です。

 主イエスは「手とわき腹とをお見せになった」。なぜ、主はこのことをなさったのか。たいへん大事なことです。十字架に死なれたイエスと、今ここで生きておられるイエスが同じお方であることを明確に示されたということです。十字架に死なれた主イエスと似ているお方がいるというのではない。十字架の主と復活の主とは別々の人ではない。十字架で死なれたまさにそのお方が確かによみがえって、今ここに生きておられるという確認なのです。十字架の主が復活の主であること、今ここにおられるお方が、一度確かに死なれたお方であることの確認です。復活による勝利を、死から命に移られたことを具体的に示されたのです。

 墓で「主を見た」という女の言葉に合点が行った。死んだお方が、死に勝利して今、ここにおられる。彼らの恐れも心配も一気にふっ飛びました。ホッとしたというだけのことではない。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されています。主イエスの復活は、弟子たちに一時の平安を与えたということではない。根本的な解決です。ですから喜びです。生ける主と再会したのです。死に勝利された主イエスを目の当たりにし、大きな喜びに満たされました。十字架と復活の主に出会ったことの喜びが救いの恵みの根本です。主イエスの十字架と復活によって、自分たちは罪と滅びから救い出されたという喜びです。

 キリスト教信仰の基調は喜びです。主と出会った喜び、救われた喜びが信仰生活を支えていくのです。「喜び」と言うと感情的なこと、感覚的なことと理解されがちですが、キリストに出会って与えられる喜びは単なる感情ではない。この喜びはキリスト者の奥底にある生きる力なのです。失恋した時でも、愛する者を失った時でも、一切の財産をなくしたような時でも、失われることのない救いの恵みの喜び、生きる力です。「主を見て喜ぶ」喜びは、生けるキリストに出会って本当に救われたという喜び、キリスト者の生きる力なのです。

 その後、主イエスに出会って喜ぶ弟子たちに対して、主は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。これは復活の主による伝道への派遣です。ヨハネ福音書はこの個所で、復活の主と出会った者の使命としての伝道への派遣を記しているのです。

 弟子たちは恐れから喜びに変えられました。主イエスは、弟子たちが味わった喜びを伝えるようにと遣わされます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。父なる神から主イエスが遣わされた。今度は、主イエスが私たちを送り出してくださるのです。キリスト者はキリストによって派遣されている。この自覚を持たねばならない。主イエスは、あなたたちは出かけて行って一所懸命やれと言うのではない。聖霊において主ご自身が一緒にいてくださいます。主イエスが地上におられた時、人々の罪を赦し、いやされた。その働きの継続です。この主イエスのお働きに私たちを加えてくださるのです。「聖霊を受けなさい」とはペンテコステの先取りです。聖霊はなによりも復活のキリストの御霊です。キリストがおられるところに聖霊があり、聖霊があるところに復活のキリストがおられ、共に働いてくださいます。