2014年5月11日礼拝説教 「幼児洗礼の意味」

             2014年5月11日

聖書=創世記17章9-12節,エフェソ書6章1-4節

幼児洗礼の意味

 

 本日は礼拝の中で幼児洗礼式を行いました。この機会に幼児洗礼について、ご両親は勿論のこと、教会のすべての方がきちんと理解を持ってほしいと考え、幼児洗礼に絞ってお話をします。今日、幼児洗礼を行う教会は少数派です。カトリック教会、聖公会、ルーテル派教会、そして改革派・長老派です。福音派と言われる教会ではほとんど行いません。むしろ幼児洗礼反対と言ってよい。けれどキリスト教会2千年の歴史ではほとんど幼児洗礼を行ってきた。洗礼は生まれてすぐに行うのが基本でした。幼児洗礼反対が出てきたのは近代になって200年ほどのことです。幼児洗礼反対の論拠は、1つは新約聖書に幼児洗礼を施せという明白な命令がないこと。第2は、洗礼は信仰の結果授けられるもので、幼児には明確な信仰告白がない。第3は、幼児洗礼を受けた者が必ずしもよき信仰者になっていない実際です。この3つの反対論に対処しながらお話ししていきたい。

 第1。新約聖書に幼児洗礼を施せとの明白な命令がない。その通りです。しかし、新約聖書に明示されていないことでは安息日の問題がある。旧約時代の安息日は土曜日でした。ところがキリスト教の礼拝は日曜日です。変わりました。キリスト復活の出来事を救済史全体から受け止めて土曜安息から日曜日を主の日と変えた。幼児洗礼も聖書全体の流れから見ていくことをしないと、問題の正しい解決にはならないのです。

 人の堕落後も、神はご自身の造られた人を愛し回復と救いの道を定めて下さいました。サタンのすえの敗北と女のすえの決定的な勝利という形で、回復と救いが約束され、神のご意志が示された。この回復と救いが、アブラハムに対して契約という形で示されました。神はアブラハムを選び、「恵みの契約」を与えます。この恵みの契約は「あなたは、わたしのものだ。わたしはあなたの神となる」というもので、救いの中核です。この契約はアブラハムだけでなく、後の子孫とも結ばれています。神はアブラハム個人の神ではなく、子孫である「彼らの神」となられた。神は契約の神です。この恵みの契約のしるしが旧約時代は割礼でした。アブラハム自身が割礼を受けると共に、子のイサクにも授けます。割礼は、神が「あなたはわたしのものだ」という神の恵みの主権のしるしです。

 この割礼が、新約時代になって洗礼に変えられました。パウロは、コロサイ書2:11,12で「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ…」と記します。洗礼が手によらない割礼、キリストの割礼と言われます。旧約時代は契約のしるしは割礼でした。しかし、キリストにあって手によらない割礼、洗礼に変えられたのです。救いは聖書に一貫して流れている恵みの契約に基づきます。幼児洗礼は契約の継承を表すものです。親が神の恵みの中に置かれる時、その家族も神の恵みの取り扱いの中に導き入れられるのです。

 第2。幼児洗礼に信仰が問われないのではありません。両親の信仰が問われている。人間関係の中で、夫婦関係は一体、親子関係は継承という関係です。今日、親は親、子は子という風潮になっているが、聖書は決して親子別々とは語りません。アブラハムに与えられた恵みの契約は、親から子への継承が語られています。神はアブラハムとだけ契約を結ばれたのではなく、彼と共に後の子孫とも契約を結ばれて「あなたとあなたの子孫の神となる」と言われた。親子の神、家族の神になって下さったのです。

 聖書において、神は一人の信仰によってその家族全体を代表させ、家族全体を特別な配慮の中に置いて下さいます。これが聖書の論理です。主イエスは、ザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」と言われた。キリスト者の家庭の子どもは、親の一方だけが信者の場合でも「あなたがたの子供たちは、実際には聖なる者です」と言われます。この聖なる者とは神との関わりの中に取り分けられていることです。幼児洗礼の基本は家族の洗礼です。聖書では、親は親、子は子ではなく、親の信仰において子供は一つのものと見なされている。親の信仰の大切さがここにあるのです。神は、旧約から新約において一貫してこのような取り扱いをしておられます。

 第3。幼児洗礼を受けた者が必ずしもよき信仰者として成長していない。これは幼児洗礼や子どもだけの問題ではなく、大人の問題でもあります。ここに幼児洗礼を授ける親の祈りと信仰教育の責任が求められています。託された子らを聖書に従って養育し、信仰告白に導いていただきたい。

 1つは、子は親のものではなく、神のものであることを認めることです。子を自分のものと考えるところから、見栄のため、親の価値観、親の期待に従って子育てをしがちです。子どもは親のものではない。神が主権を持つ神のものであることをしっかりと受け止めていただきたい。

 2つは、神から子の養育を託されていることです。親は子に対しては神の代理です。神を伝えることが、神の代理者としての最も基本的な使命です。聖書的な価値観を教えることです。親がよき信仰者として歩むことです。子と共に祈り、子のために祈ることです。これは、家族揃って礼拝を守ることと、家庭礼拝を守る中でなされていくのです。

 3つは、子らをそれぞれの道に従って育てることです。同じ親から生まれた兄弟でも、それぞれです。賜物が違うように性格も違います。人生の歩む道も違います。新改訳・箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ」。ふさわしく歩むことを導くのです。「あなた、お兄ちゃんと、どうしてこんなに違うの」と言ってはならない。兄は兄、弟は弟です。