2014年6月22日礼拝説教 「律法主義のわざわい」

            2014年6月22日

聖書=ルカ福音書11章42-44節

律法主義のわざわい

 

 日本のことわざに「木を見て森を見ず」という言葉があります。細かなこと、末梢的なことにはよく気が付くが、全体的なことあるいは肝心なことを見失っているという意味の言葉です。「ファリサイ派の人々」が登場します。彼らの立つところは聖書です。旧約聖書が神の戒めの言葉で、それを忠実に守ることが救いに至る道と信じていた。戒めを守り、戒めを踏み外さないために、聖書の戒めの外側に、さらにさまざまな人間的な規則を設けて、それら外側の規制を守ることによって律法を完全に守ることが出来ると考えた。主イエスはこのファリサイ主義・律法主義と戦われた。一見聖書的のように思えるが、実は聖書の教えから遠い。聖書から外れている。民衆を惑わすもの、災いだと言われた。主イエスはファリサイ派の清めの習慣を無視された。それを見て食事に招いたファリサイ派の主人やその他の人たちが驚きざわめいた。その中で主イエスはあえて彼らの挑戦に乗るかのように律法主義の3つの問題点を的確に指摘されたのです。

 第1は、律法主義の問題点を十分の一献げ物との関連で指摘されます。本末転倒です。収入の十分の一を捧げることは大切な旧約律法です。レビ記27章に明記されています。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである」。収入の十分の一を捧げる規定は、本来、神殿に仕える祭司・レビ人の生活を支えるためでした。12部族の中で神殿に仕える祭司の部族・レビ族は土地という生産手段を与えられなかった。神殿に仕えることが彼らの嗣業、務めでした。他の11部族が十分の一ずつ拠出すれば、レビ族の生活も支えられ、神殿の活動も支えられる。本来は隣人愛の規定、神殿システム維持のための規定です。

 ファリサイ派はこの律法を守るために、さらに外に垣根を設けた。レビ記の記す「穀物、果実」とは、主な収穫物である小麦とブドウのことです。ところがファリサイ派は畑に自生する「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一」まで献げ物として数えた。つまり畑に自生するありとあらゆるもの、野草さえも十分の一を献げものとした。神経質なまでに十分の一にこだわった。それほど厳格に神の掟にこだわっている。

 さぞかし神への愛に燃えているだろうと思う。ところが主イエスは「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と言われた。具体的にどのようなことを指して言ったのかは判りませんが、律法の本筋を外していると指摘された。「おろそかにする」とは、「パスする」と訳せる言葉です。トランプでパスするのと同じです。通過してしまう。抜かしてしまう。主イエスは律法の基本をこう要約しています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。律法の基本は神を愛することと隣人を愛することです。これがパスされてしまっている。ファリサイ派の熱心は神への愛からではない。律法を守ろうとしているが、律法を与えた神の御心が判らなくなってしまっていた。

 主イエスは律法主義の第2の問題点を指摘します。「ファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」。人間の名誉や評価を求めることです。神の前に生きるのではなく、人の前で生きることになっていると言われた。律法への忠実さは、神が評価してくださったらそれでいいのです。それが、いつの間にか人間的な評価を求めるようになる。そのため、祈りの時に隠れたところでそっと祈るのではなく、大通りの辻など人が集まるところに出かけていって、大きな声で朗々と祈る。すると人々はあの人は立派な人だ、敬虔な人だ、すばらしい祈りが出来る人だと評価してくれ、集会などで上席に着くよう導かれることになる。人の目に評価されることを願っての生き方です。

 キリスト教の生き方は、人の評価を優先させる生き方ではありません。キリスト教信仰は、行いを基本にするのではなく、赦しの恵みを基本にしているのです。罪人のまま、罪あるがままで神に赦され、受け入れられ、生かされる。罪に破れたままの私が、神に愛され、受け入れられる。これがキリスト教信仰の基本です。この基本が忘れられると、私たちもキリスト教的律法主義に陥ってしまいます。

 第3の問題は、その危険性です。「人目につかない墓のようなものである」と言われた。彼らの教えが気付かない内に他の人たちを汚染して、たいへんな危険に陥らせてしまう。レビ記19章に、野外で墓に触れる者は7日間汚れるとされ、その人は礼拝や宗教儀式に参加できません。神との交わりから阻害されてしまう。ファリサイ主義は、神との交わりを阻害してしまう結果をもたらす。ユダヤでは春になるとお墓に石灰を塗って真っ白にする。すると人目につくので近寄らなくなる。白く塗られていない墓は人目につきません。そのため人目につかない墓は人に災難を与えてしまう。

 律法主義は人目に付かない墓のように、気付かないうちに周囲の人々に災難を与えてしまうと、主イエスは言われた。どうしてでしょうか。律法主義はまじめな動機と立派な外見を持つ。まじめで立派ですから、民衆の心を捕らえます。しかし、律法を守って生きようとすればするほど、実際は神の御心から離れ、神への愛から離れ、人の評価を気にして生きるという皮肉な結果になる。外を整えようとすると、結果として神への愛から離れてしまう。自分が神から離れるだけでなく、関わりのない他の人たちを神との交わりから遠ざけてしまっているのだと、主は言われたのです。