2014年7月6日
聖書=ルカ福音書12章1-3節
偽善に注意しなさい
キリスト者にとって心すべきは偽善です。「偽善」と訳された語は「ヒュポクリティース」です。言葉の意味は「演技する」です。役者が仮面を付けてある役割を演技することを言い、それが本心とは別のかっこいい自分、みてくれのいい姿を演じることの意味に転用された。キリスト者にとり偽善は大きな危険性を持っています。主イエスはファリサイ派の人の家から追い出されるように出て行くと、大群衆に取り巻かれました。すると「イエスは、まず弟子たちに話し始められた」。群衆に取り巻かれた時、弟子たちは得意になったかもしれない。「我々には人気がある、人の期待がある」と。それに対して、主イエスは弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と話し始められた。
「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」とは、ファリサイ派に騙されるなというのではありません。ファリサイ派と同じような偽善に陥らないようにしなさい、と言われた。弟子たちへの警告です。偽善とは表と裏が違うことです。ファリサイ派の人は神を信じ、神のために生きているようですが、負いきれない重荷を人に負わせて、実際には自分中心に生きている。表面は信仰者らしく取り繕っています。周囲の人からはよき信仰者、よきユダヤ教徒として見られています。祈りは神との交わりです。しかし、他の人に敬虔な者と見てほしいために定められた時間になると町の辻に出かけて、人に聞こえるように大きな声で朗々と祈りの言葉を唱えるのです。まさに演技しているのです。
主イエスは、ファリサイ派の偽善がキリストの弟子たちの中にも入り込んでくることを警戒しています。パン種とは、パンを作る時に入れる酵母のことです。僅かの酵母菌で全体をふくらませます。ごく僅かな腐敗でも全体に及び全体を変質させてしまう。ごく僅かと思っていたら、群れの全体が変質してしまう。それが偽善の恐ろしさです。これからキリストの弟子たちはユダヤ教と分かれて、新しくキリストの教会を建てていかねばなりません。新しい神の民の群れとして形づくられるのです。その時には迫害も起こる。殉教も起こる。その時に、人前で演技するような生き方をしているのであれば、迫害に耐えることなど出来ません。
では、どうしたらよいか。キリスト者が身に付けるべき生き方は神を畏れる生き方です。真実を見抜かれる神の目を意識することです。宗教改革者カルヴァンの口癖は「コーラム・ディオ」でした。「神の前で」です。キリスト者の生き方は、神の目を意識し、神の前に生きるのです。しかし、人はここで間違ってしまう。神の目を意識して生きようとする時に、頑張ってしまう。立派であろうとしてしまう。そうではない。破れたままの私を神の前にさらすのです。ハイデルベルク信仰問答114問で「それでは、神へと立ち帰った人たちは、このような戒めを完全に守ることが出来るのですか」と問います。答えは「いいえ」です。「それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたに過ぎません」と答えています。このことをしっかりと受け止めて、生きるのです。
キリスト者は立派な人間、神の戒めを守っている敬虔な人間ではありません。この世にある間は、神への服従をわずかばかり始めたに過ぎない。なお罪を抱えて生きる人間です。神の目を意識して生きるとは、演技して生きるのではなく、罪を抱えて生き、赦されて生きる姿をそのままに正直に生きることです。頑張って立派に生きようとするところで演技が始まります。偽善が始まる。それがキリスト者としての生き方を崩していく。時折、「あなた、それでもクリスチャン」と言われるかもしれない。それでいいのです。しかし、その罪が赦されている。いつも悔い改めて、赦しを求め続けて生きるのです。これが毎週、私たちが主の日に集まって礼拝する本当の理由なのです。クリスチャンらしいから教会の礼拝に集まるのではない。クリスチャンらしくないから、礼拝にしがみつくのです。
浜松教会の礼拝式の中にはありませんが、改革派教会の礼拝式の中には、本来「罪の悔い改めの祈り」と「赦しの宣言」とがあります。礼拝に集うのは、私はこの1週間、こんなに立派に神の掟に従って歩んできましたと、胸を張るためではありません。そうではなく、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神の前に出るのです。日曜学校で「キリエ・エレイソン」という賛美をしています。これが「赦しを求める祈りの歌」なのです。「主よ、あわれみたまえ。キリストよ、あわれみたまえ」と祈るのです。一週間の歩みにおいて多くの罪を犯してきました。この罪を赦してください。そしてもう一度、あなたのものとして生きる道を開いてくださいと祈り求める歌です。礼拝とは、罪を抱えて生きざるを得ない私たちが、しかし赦しをいただいて「ありのまま」で生きることの出来る恵みの場なのです。礼拝は、本来、演技することを捨てるところなのです。
私たちの教会は、これから、さらに成長して教会設立を祈り求めてまいります。しかし、頑張って背伸びする必要はありません。自己卑下する必要もありません。あるがままの姿で、主の恵みに応えて教会としての歩みを続けていくのです。その基本にあるのは、一人一人の信仰生活を健全なものにすることです。それは隠れたところにおられる神に祈る信仰者としての歩みを確立することです。隠れたところにおられる神に祈る生活が確立されていくならば、その信仰の歩みは決して隠れていることは出来ません。必ずよき証しとなります。神の恵みを証しする信仰者の生活として「屋根の上でも言い広められる」ことになるのです。