2014年8月10日
聖書=使徒言行録7章51節-8章1節
歴史を見つめて生きる
最近の書店の棚を見るとドキッとさせられる。「嫌中・憎韓」という嫌な言葉が出てきた。そんな傾向を持つ本が一つの棚を埋め尽くしている。民族感情をむき出しにしたヘイトスピーチも行われている。戦後の憲法に基づく民主的・平和的な歴史観、歴史の事実を客観的に押さえた歴史観を「自虐史観」と呼んで攻撃する人が増えてきた。戦前の天皇中心の神国思想に基づく「皇国史観」が復活し、自民族を絶対視し、戦前のアジア諸国への侵略の事実をほおかむりし、侵略の事実を正当化していると言っていい。教科書でも皇国史観的な歴史観に立つ執筆者による歴史教科書が大幅に採用されている。私たちはキリスト者として自国の歴史の汚点をもきちんと受け止めていかねばならない。歴史の事実をごまかしてはならないのです。
この関連で、キリスト教会最初の殉教者ステファノのことを取り上げる。ステファノは恵みと力に満ち、ユダヤの人たちと論争し、その論争で打ち負かされた人々が彼を「最高法院」サンへドリン議会に訴えた。訴えた理由は、「聖なる場所と律法をけなしている」です。律法違反と聖所冒涜で、主イエスの訴因とよく似ています。その訴えに対して、最高法院でなしたステファノの弁明が7章のほとんどを占めている。ステファノの弁明がユダヤ人を怒らせ、その結果殉教が起こるが、その基本はユダヤ人の歴史観と、ステファノの歴史理解の対立にある。神の民として選ばれたイスラエル民族の歴史、その中で起こったイエス・キリストの出来事、それをどういう立場、どういう視点から見るか、この歴史認識の違いがステファノの事件なのです。ステファノの弁明をきちんと読んでいただく必要がある。
ステファノの語ったことは、ユダヤ人にはよく分かっていることでした。神の民であるイスラエルの歴史を物語ったのです。今日、私たちが旧約聖書を読んで、ステファノの語ったことが聖書の語るイスラエルの歴史の事実であることが分かります。ステファノの語ったことは特別なことではない。ユダヤ人たちも同じ聖書を持ち、同じ聖書を読み、十分知っていることです。では、なぜ、ユダヤ人たちがステファノを殺すほどに怒り狂ったのでしょうか。ここに問題点があります。
ユダヤ人たちは、自分たち先祖の歴史を誇り高い神の選民の歴史として見ようとしていた。自分たちの先祖の失敗や罪、神への反逆などは触れてもらいたくない。目にしたくない。聞きたくない。よしんば認めるとしても、個々1つ1つ別々の罪の出来事であり、今の自分たちとの連続性はないのだと正当化したい。ところがステファノの指摘だとイスラエルの歴史は全体としてトータルに神への反逆の歴史であったという指摘なのです。その背神の歴史が現在に続いているという指摘です。今日の言葉で言えば、ステファノの歴史理解はまさに「自虐史観」であるということです。
私たちは日本の近現代の歴史を冷静に見つめることが必要です。自虐史観と言われても、犯してきた歴史を受け止めなければ前に進めないのです。罪を罪として受け止めて、悔い改めて生きるのです。かつて韓国を植民地化してまもなくのことです。1919年、万歳事件と言う独立運動が起こります。すると軍隊と警察とで小さな「堤岩里」村の男を全部、教会堂に集めて焼き殺し、逃げようとした者を全員射殺してしまったことがある。日本ではほとんど報道されることはありませんでした。中国でもたいへんな虐殺と非人間的なことを繰り返し犯してきたのです。訓練として捕虜をなぶり殺しにし、生きた人をそのまま人体実験もしてきたのです。
私たちは広島・長崎で受けた戦争被害だけを語りますが、実はアジア諸国に戦争の多くの被害を与えてきた加害の歴史を忘れてはならないのです。日本ではほとんど報道されることはありません。そのために人目につかず、忘れられ、語られることも少ない。けれど、どんなに浅ましいことをしてきたのかに無知であってはならない。今日、多くの文献や資料が書物として出版されています。よく承知しておくことが大切です。日本の戦争犯罪を物語る書物が隠される前に、読んでおいてほしいと願っています。
ステファノは、神がイスラエルを愛して選び、アブラハムを通して恵みの契約を与え、モーセを通してエジプトから救い出してくださった恵みの歴史を語る。それに対して、イスラエルの民の歴史は反逆の歴史であったと指摘している。反逆の歴史をありのままに見ているのです。神の御心をないがしろにし、神殿を絶対化し、形式的に心のこもらない礼拝を守っているに過ぎない。そして、神の言葉を真実に伝えた預言者たちを殺してきた。最終的に神があわれみをもって遣わした「正しい方」であるメシア・キリストを殺し拒んでしまったと物語るのです。このことによって、あなたがたは「神を裏切る者、神を殺す者」になったと告発しているのです。
ユダヤ人にとっては怒り心頭でした。自民族の歴史をまるごと肯定し正当化する歴史観から見れば断じて許せないのが、ステファノの歴史観でした。ステファノを訴えた人々も、その訴えを受け止めた最高法院の議員たちも、自分たちの立つ土台が突き崩されるような危険性をステファノの弁明に聞き取った。その結果、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」。法廷の内外からステファノに対する怒号が激しく飛び交い、今にも飛びかかろうとしているような状況が読み取れます。雨あられと投げつけられる石つぶての中で、「眠りについた」。主ご自身がステファノのすべてを受け止めてくださり、安らかに眠りについたのです。主イエスの後に従う者の安らかな死の姿です。今日の私たちも、このステファノの歴史理解を受け止め、歴史を偽ることなく見つめてまいりたい。