2014年8月24日
聖書=ルカ福音書12章22-34節
恐れるな、小さな群れよ
エルサレムの初代教会の人たちは貧しい人が多く、小さな共同体でした。「小さな群れよ、恐れるな」。これは主イエスが語られた大切な言葉だ、決して忘れないようにしよう。この御言葉に生きようではないかと互いに言い交わすような思いで、福音を伝えて教会を建ててきた。教会はこの主イエスのお言葉を大切にして、このお言葉の力を信じて、福音を伝え教会を建ててきたのです。この約束の御言葉に信頼して、私たちの教会も自立した教会を建てて福音を伝えていこうと願っているのです。
最初の部分、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」から始まって、27節までは信仰のない人でも感動して読むのではないか。しかし、ここで教えられていることはキリスト者でなければ理解することができない事柄なのです。「それから、イエスは弟子たちに言われた」。主イエスに聞き従い、福音を宣べ伝えていく弟子たちに語られている。ですから、主イエスの弟子として主イエスに従い、教会を建てていこうと願っている私たちが注意して聴かねばならないことなのです。
「小さな群れよ、恐れるな」と言われている。何を恐れるのか。迫害か。それもあるが、主イエスはキリスト者の恐れをよく知っていてくださいます。生活の恐れ、生活の思い煩いです。キリスト者も生活のことで思い煩い、恐れる。今は何とか生きているが、これからどうなるか分からない。生活していけるのだろうか、そういうことで思い煩う。主イエスもそこを見ておられるのです。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。これは衣食住について無関心であれと教えているのではない。キリスト教信仰は一切を放り出すような生き方をしません。家族を抱え、子どもを産み育てながらキリスト者として生きていく。食べること、飲むこと、着ること、住むことなどの日常生活の中でなされるのです。家族に何を食べさせようか、子供たちに何を着せようかと心遣いする主婦の思い煩いを、主イエスは十分に知っておられます。
この時、主イエスがおられた場所はガリラヤ湖近くの丘の上でした。美しい湖水が見え、草が生え花が咲き、鳥も駆け回っている。主はそれらを見ながら言います。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。…野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。…」。神は鳥や草花をも養っておられる。神は人間をさらによく配慮してくださると言われた。この主イエスのお言葉を聞くとホッとさせられる。鳥のように自由な気持ちにさせられる。主は信仰者の目を大きく神の大空に向けて開かせてくれる。暮らしの心配や生活の不安だけを見る私たちの目を大きく広い世界を見ることを教えられた。私たちは神の大きな御手の中にあるのだと、気付かされるのです。
主イエスが語られたことは神の摂理の御手があることです。神が生きて働いておられることです。ハイデルベルク信仰問答第27問で問います。「神の摂理について、あなたは何を理解しますか」。答えは「全能かつ現実の力です。それによって神は天と地のすべての被造物を、いわばその御手を持って、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、わたしたちにもたらされるのです」。これは私の大好きな問答です。「思い煩うな」と、主が言われた理由は人間の中にはありません。この世の中にもありません。美しくのんびりしているように見える自然界であっても、この世界は厳しい弱肉強食の世界です。また自然界は猛威を振るいます。しかし、天と地のすべての被造物は、それを造られた神の御手の中にあるのです。弱肉強食の世界、猛威を振るう自然界、その中で神が支配し、配慮し、守っていてくださる。それが摂理の信仰です。
なぜ、神はまことに弱く小さな存在に過ぎない私たちを配慮してくださるのか。何を根拠にして言われたのか。鳥より花より優れて、神の形に作られている人間であるということでしょうか。しかし、ここで注意しなければならないことは、主イエスは弟子である「あなたがた」に語りかけているのです。キリストの弟子であるあなたがたは、何よりも主イエス・キリストの救いの恵みにあずかっていることです。神を父と呼ぶことの出来る特別な関係の中に入れていただいている。私たちは神の子なのです。神は父として、神の子らのために特別な顧みを与えてくださいます。
それだけではありません。「あなたがた」は、キリストの弟子として召されている。「あなたがたは神の国の働きのために召されている者だ」。あなたがたを召してくださった方は、その召しに応えて歩む者の必要を必ず備えてくださるということです。主イエスは、神の召しに従って生きる人の必要は、命のことであれ、体のことであれ、備えてくださるのであって、思い煩う必要はないと言われているのです。この神の召しに気付かない弟子たちに対して、主イエスは「信仰の薄い者たちよ」と言われた。自分の力という小さな枠、小さな物差しを持って、その枠の中で、その物差しで、すべてを計ってしまう信仰です。大きな信仰とは、神を天地を造られた神として信じ仰ぐ信仰です。その主を仰いで、神が父として摂理しておられることに信頼していく信仰です。「ただ、神の国を求めなさい」。これが主イエスの弟子である私たちへの召し、使命です。この主の召しに従って生きる僕の命の必要、体の必要を十分にご存じであり、そのために特別な配慮をして下さいます。だから、思い煩う必要はないと言われたのです。