2014年9月21日礼拝説教 「地上に火を投ずるために」

             2014年9月21日

聖書=ルカ福音書12章49-53節

地上に火を投ずるために

 

 この個所の主イエスのお言葉を聞いて、いつものやさしいイエス様のお言葉とは違うなあという印象を持つのではないか。日本は、聖徳太子の17条憲法の言葉が生きている社会と言ってよい。「和を以て貴しとなす」。この言葉のゆえに、日本は平和を愛する国だと言う人もいる。私は疑問に思う。この「和」とは仲間内で異を唱えず一致を守ることです。「君言えば、臣承る」という君臣の間の和、人との交際の中の和、独断すべからずの和です。仲間内の一致団結を優先する言葉。空気を読んで空気に従っていく和。戦争に対しても異議申し立てをしない風潮が生まれてくる和です。

 主イエスは社会の空気を読むような「和」に対して、キリストの弟子の生き方を示しているのです。主イエスの心の中を大きく占めるのは、これからの十字架の出来事です。十字架に向かって心を定めた主イエスの切なる想いがここに語られている。主の想いを悟って主の跡に従ってほしい。真実のキリストの弟子となってほしいという主の想いが語られている。

 主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われた。この「火」は神の火、聖霊の火です。さらに信仰の火です。主イエスは、救い主としてこの地に来られた時、救い主を待つ信仰、救い主を信じる信仰がイスラエルの国中に広がっていたらと願った。ところが、神の民であるはずのイスラエルに神の火は燃えていなかった。そこで、主イエスご自身が弟子たちの中に聖霊の火を投じてくださったのです。主イエスは火を投じられたお方です。聖霊の火を投じてくださった。主イエスの伝道は火を投じる働きでした。それによって与えられた「信仰もまた火」なのです。

 主イエスによって投じられた聖霊の火が人に信仰をもたらし、その信仰もまた燃える火となる。火はすべてのものを燃やし尽くす。信仰は人とその生涯を燃やし尽くすのです。ペトロも、ヨハネも、パウロもそうでした。聖霊と信仰とは、人生を燃やし尽くすのです。私たちに火が投じられている。キリスト教信仰は落ち着いた知識を伴う。しかし、知識だけの信仰では本物の信仰とは言えない。本物の信仰は頭から足の先まで全身を燃やし尽くす。「火を投ずる、火に燃やされる」とは、全身丸ごとキリストのものとなることです。火には激しさがある。キリストの支配の中で真剣に生きる者となる。そうでなければ献身は起こりませんし、人を動かすこともありません。一握りのキリストの弟子たちが聖霊に満たされ、大胆に力強く主を証ししてキリストの教会が出発した。聖霊は弟子たちを丸ごと焼き尽くし燃やし尽くす。そこで初めて多くの人が動かされるのです。教会は火となって燃やされた人たちによって前進してきたのです。

 主イエスは火が燃やされる時、火が投じられる時、そこに苦難があることを語られました。主ご自身がその苦難の先駆けとなることを示された。「わたしには受けねばならない洗礼がある。…」。主イエスが言われた「受けねばならない洗礼」とは十字架の苦難を指しています。主ご自身が十字架においてご自身を丸ごと献げつくしてくださいました。ご自身を十字架に渡し苦難を受けられました。主ご自身が火となって引き受けてくださった苦難によって今、私たちも燃やされているのです。キリスト者の生活は、無病息災、無事安穏に生活するだけのものではありません。十字架において示されたキリストの愛の熱さ、火のような激しさに触れるところで、触れた人の生涯がまた火として燃やされていくのです。私たちの心は燃焼しているでしょうか。燃焼していることは、キリストのための苦しみを引き受けることです。パウロはフィリピ書1章29節で「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と記す。私たちもそれぞれの十字架を担って生涯を燃焼させていくのです。もし燃焼していないならば、どこかがおかしい。キリストの十字架の火にまだ触れていないのではないでしょうか。

 主イエスは言われます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。…」。ここから「キリスト教は平和の宗教ではない。家族の中に争いを起こす宗教だ」と言われる。何を意味する言葉なのか。肉親の情愛という形で、日本的な和の問題が取り上げられているのです。人が本物の信仰者になる時に、肉親との情愛の課題は起こらざるを得ないのです。火が投じられたことの結果なのです。聖霊が与えられ、キリストの十字架の熱い火に触れて、本物の信仰者として燃やされると、結果として、どのような反対にも屈しない神への熱心が与えられるのです。

 この背後には、主イエスご自身の血みどろの体験がありました。主イエスにとって大きな障害は愛する家族でした。断ち切りがたい肉親の情愛との戦いという深刻な体験をされた主ご自身が、「あなたは誰についていくのか。あなたは誰に従うのか」と問うているのです。主イエスを信じることは、信仰に立っての激しい生き方が求められます。信仰の故の苦難が生まれます。最も親しい家族の中にも、時に家庭内の不和が起こり、分裂することも起こる。しかし、ここも主イエスが体験され、主イエスが通られた道です。信仰の火に燃やされることは苦しみをも受けねばならない。家族の情愛をも乗り越えていくことも求められる。私たちも、この火を受けているのです。社会の空気を読んで生きるのではない。信仰の火が灯されているならば、キリストの故に受ける苦しみを引き受ける者となるのです。