2014年10月26日礼拝説教 「神の恵みの支配」

             2014年11月26日

聖書=ルカ福音書13章10-17節

神の恵みの支配

 

 「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」。ユダヤ教の会堂では男女一緒に座ることはない。左右に分かれて座った。中央が大きく通路として分けられて、正面から右側が広く男性、女性は左の方に区切られていた。同じフロアーですから説教者からはよく見える。大勢の婦人に混じって体を病んでいる女性がいた。主イエスは説教を始めるとすぐに見て取られた。「十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」。この病状を誰が説明したわけでもない。主イエスが見て取られた。主イエスは私たちの姿を見ておられます。私たちの痛み、苦しみ、悩みを見て取られます。礼拝に集う者の苦しみを見ていてくださいます。ここから恵みの出来事が始まります。

 主イエスは説教を終え、そのまま自分の席に戻ってもいい。しかし、主は説教を終えると、その婦人に語りかけられた。主イエスは「その女を見て呼び寄せ」ました。主の説教といやしの御業が結びついている。説教で語られたことを具体的な御業によって見える仕方で示されるのです。人々の視線がその女性に注がれます。腰の曲がった女性が重い体を持ち上げるようにして中央の通路を通って主イエスの前に立った。すると、主イエスは「婦人よ、病気は治った」と言って手を置かれたのです。すると「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」。躍り上がったでしょう。多くの人はこのすばらしい恵みの御業を見て、彼女と共に神を賛美した。神の恵みの支配、神の国がここにあるのです。

 実はここからが問題なのです。会堂の責任者である会堂長からクレームがついた。「今日は安息日ではないか」と。会堂長は、イエスが安息日に病人をいやしたことに腹を立てて言います。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と。イエスは明らかに安息日律法を無視した。律法破りだと告発した。これまでにも主イエスは安息日の守り方について問題としてきた。ここで主があえて再び安息日の問題を取り上げるのは目的があった。それは安息日だけではなく、律法全体に対する理解に深く関わります。いやしの問題ではなく律法理解の問題です。安息日規定の理解としては、実は会堂長の言う通りで、彼は間違っていない。生命に関わることであったら、ファリサイ派でも安息日に緊急処置を執ることは認めていた。この婦人は緊急処置が必要な場合ではない。

 しかし、主イエスはあえて安息日にいやされたのです。主イエスは律法破りをしたのか。決してそうではない。主イエスは「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と言われた。ここに律法理解の本来の道筋が見えているのです。律法の表面的な理解に対して「偽善者」と言われた。会堂長のどこが間違っているのか。どこが問題なのか。問題は律法の表面的な文字上のことではない。律法をどう解釈していくべきかの問題です。神の言葉である律法に神の恵みを見いださないならば、頑なと言う罪なのです。律法は神の御心の表れですが、人間の言葉で表現される時に、言葉の枠が出来てしまいます。そのために律法全体を含めて解釈が求められるのです。聖書は解釈されねばならないのです。

 主イエスは、安息日が設けられた基本に戻って理解された。創世記2章2,3節「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。神は6日間働かれ、第7日目は休まれたという程度に多くの人は理解する。神は第7日には何もしていないのか。そうではない。「第七の日を神は祝福し、聖別された」。これが安息なさった理由です。神は第7日目にはすべての被造物を祝福し聖別しておられます。神は7日目には6日間とはまったく違った「祝福」という働きをしておられるのです。

 第7の日は、祝福と聖別の時なのです。祝福とは、被造物が本来の在り方で用いられることを神と人とが共に喜び、祝うことです。聖別とは、神のために取り分けることです。安息日とは、神にとって何もしない日ではなく、全創造の頂点であり、創造の完成と祝福なのだと言っていい。神に触れ、神のふところに帰って平安をいただく時なのです。主イエスは決して律法を破られたのではない。安息日律法をその律法が与えられた本来の意味に立ち帰って理解された。安息日の「何もしない」とは、神に向かって健やかに生きるという本来の生き方を回復するために、すべての捕らわれや思い煩いから解き放たれるためのものです。仕事の思い煩い、生活の思い煩い、人間関係の軋轢など、一週6日間の生活の中で私たちを捕らえている諸々のものから解放されるための「何もしない」なのです。

 この女性は「18年間もサタンに縛られていた」。主イエスはその束縛から彼女を解き放って、神の祝福の中に導き入れたのです。これこそ安息日の目的です。安息日は、人としての本来の在り方、神を喜び、神との交わりに生きるためのものです。礼拝の中で、神によって健やかさを回復されるのです。主イエスが一日も待たせずに安息日にいやしをされた意義は極めて大きい。一日も早く健やかに生きるのだ、神の祝福を喜んで生きるのだと言われているのです。今日も、主イエスは礼拝の中で私たちの心を闇と罪の縄目から解放してくださいます。神が律法を与えたのは、私たちを暗く過ごさせるためではなく、神を喜び、神にあって健やかに生きるためです。これこそ、律法が目差す本来の恵みと祝福を喜ぶ姿なのです。