2014年11月9日礼拝説教 「神の国に入るのは誰か」

              2014年11月9日

聖書=ルカ福音書13章22-30節

神の国に入るのは誰か

 

 主イエスは最後のエルサレム訪問の旅の途中で、ある人から尋ねられた。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。今日の私たちにとっても心引かれる質問ではないか。日本社会の中で圧倒的少数者として生きているキリスト者が、心のどこかに持つ質問と言っていい。問いかけた人がどういう立場の人であったかは分からない。見聞きした主イエスの言葉と御業に感動もした。しかし、主イエスの弟子たちは大幅に増えそうもない。そこで、この人は救いにあずかる人はどのくらいいるんだろうと、新聞記者的な好奇心から質問をした。主イエスは、その質問に直接お答えにならないで「一同」に向かって言われます。弟子たちも群衆も含めてです。その人たちに向かって「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われた。

 織田信長と豊臣秀吉に仕えて茶道を確立した人に千利休がいます。この人はキリシタンの影響を深く受けた人であると言われている。千利休は茶室に「にじり口」を作りました。武士だからといって大小の刀を持っては入れない。「にじり口」は、刀を預けて、体を折り曲げて、身をよじるようにして入ることの出来る広さしかない。利休の作った茶室の「にじり口」は「狭い戸口から入れ」との言葉から来ていると言われている。神の国は小さくなり、身をよじるように低くならなければ入れない。ごう慢な姿勢では入れない。「努めなさい」とは、「戦え」と訳せる言葉です。一人しか入れない戸口に入るために他の人を押しのけて自分だけが、という「戦い」ではない。身を小さくこごめる努力、身を低くする努力、謙遜になる戦いです。救われる人が多いか少ないかと統計的・客観的な問題として新聞記者が傲慢に尋ねる。取材で横柄にものを問う。そのような仕方ではなく、自分自身に差し迫っている問題として身をかがめ、身を低くする努力をしなければならないのだ、と主イエスは警告しておられるのです。

 主イエスは「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われた。どんなに入ろうと願っても入れない場合もある。多くの日本人は無意識の内に、教会とキリスト教信仰を軽視する、軽侮する、あなどるところがある。教会に行けばいつでも歓迎してくれる、人生やりたいことをやって、年取ってからでも信仰なんかは間に合うと軽く考える。それはキリスト教を軽蔑するのではなく、自分の人生を軽んじていることなのです。主イエスは、入ろうとしても入れないケースを例えで示されました。

 まず、戸が閉まることです。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。救いの戸口は狭いだけでなく、定められた時が来たら閉まってしまう。身を低くしなければ入れないだけではない。時の限界がある。戸が閉められる時がある。このことを今日、どれほど真剣に受け止めているか。死はいつやって来るか分かりません。終末はいつあるか分かりません。神の国の扉が閉じられる時のあることを覚えねばならない。

 次に扉が閉まってもなお、コネを頼りにして入れてもらおうと考える人のことを語る。「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」と。もう戸は閉じられている。しかし、なお外でわめく。私たちにもよく分かる情景です。表口があれば裏口がある。表が閉まっても裏口は開けてもらえるだろう。なんだかんだ言っても、実際は何とかなるという考え方です。戸が閉められてもなんとか融通がつくだろうと考える。ここにあるのは日本人的な甘えです。

 家の主人は神です。神には表も裏もありません。コネも通用しない。日本的な甘えは通用しない。閉まる時は閉まる。主人は「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われます。「不義を行う者ども」と言ったが、彼らがどんな不義を行ったのか。彼らが盗みや人殺しをしたわけではない。何を指して「不義」と言うのか。それは神の言葉を真剣に聞かないことです。神の愛の呼びかけを真剣に受け止めないことです。心のどこかにある、神を軽侮する思い、神を軽視する思い、それが不義です。神は罪人を真剣に愛し、救いの道を開いてくださった。独り子であるキリストを人とならせ、罪人の身代わりとする救いの道です。ここに真剣な神の愛が示されている。この神の真剣な愛に私たちも真剣に応える。応えねばならないのです。神の真剣な愛の呼びかけに応えないことが「不義」なのです。

  この神の愛の呼びかけを拒み続けたのが、旧約の神の民ユダヤの人々です。身を低くして狭い戸口から入れという招きの言葉に耳を傾けようとしなかった。ところが、実は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いに対して、主イエスは答えておられます。「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く…」。このみ言葉は詩編107編2,3節からの引用です。このみ言葉は私たちの教会で「招きの言葉」として用いています。神の国の宴会には世界中から「主に贖われた」多くの人が来る。神の国は決して少数ではありません。人の思いをはるかに超えて、多くの贖われた人々が神の国の宴会の席に着くのです。私たちは、「救われる者が多いか少ないか」というような問いに振り回されてはならない。私たち自身が神の国に入るために、身を低くして謙遜になって、狭い戸口から入る者となりたい。すべての人が神を軽んじる思いを捨て、神の国に入る努力を真剣にしていくことが、求められているのです。