2014年11月16日
聖書=ルカ福音書13章31-35節
進み行く神の御業
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」。その時に「ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った」。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と。この言葉は悪意あるものではなかった。イエスの身の危険を警告し安全な地に退くようにと忠告した。ここに登場するヘロデはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスを指している。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとぺレヤの領主でした。後に文学の世界で素材となる兄の妻サロメに横恋慕して自分のものにしてした人物です。乱暴者のようですが、ユダヤ古代史ではヘロデ・アンティパスは「静謐を愛した人」と記されている。
自分の静かな生活を乱すイエスを取り除いてしまおうと考えた。虫のいいことです。兄からその妻を奪い人の生活をかき乱しておいて、自分は静かな生活を好む。そのためにうるさいイエスを力で取り除いて静穏さを守ろうとした。身勝手、自己中心が絵に描いたように浮かび上がってくる。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。ファリサイ派の人への答えです。いつもはファリサイ派に対して手厳しい主イエスも、ここには批判は込められていません。領主ヘロデへの伝言を託した。主イエスはヘロデを「狐」と言う。「虎の威を借る狐」です。どうすればローマ皇帝の覚えがよくなるかを考え、皇帝の力を借りて支配者として君臨していた。
このヘロデに対して、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」。これが主イエスの伝言の内容です。わたしは今日も明日も、救い主としての働きを続けると、主イエスの宣言と言ってよい。しかし、それはもうすぐに終わるのだと言われた。「三日目」とは文字通りの3日ではなく、「まもなく、近い将来」を表すユダヤ的な表現と言われています。ヘロデがわざわざ自分の命を狙わなくても、自分の地上における働きの時はもうすぐ終わると言われたのです。「ヘロデよ、そう心配するな」という皮肉の言葉でもあります。
主イエスは、「だが」とおっしゃいました。これ以降のお言葉はその場にいる人たち、主イエスの弟子、ファリサイ派の人、一般の群衆へのご自分の自覚を訴えた言葉です。エルサレムに顔を向けて進む主イエスの感情が爆発したお言葉です。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。主イエスはこれからエルサレムに向かいます。ヘロデから追われて、逃れるためではない。エルサレムに行くのは「神の御心」なのだ。「自分の道を進まねばならない」という言葉は、神のご意志を表す言葉です。イエスがエルサレムに行くことを誰が決めたのか。父なる神がお決めになったことです。父なる神がお決めになられ、主イエスが救い主としての「自分の道」と決意されたことです。
何故、エルサレムに行かねばならないのでしょうか。それはエルサレムで死ぬためです。主イエスは、この時点で明らかにご自分の死を受け止めておられました。そこで主イエスの叫びが出て来たのです。主イエスは感極まったように突然、「エルサレム、エルサレム」と叫ばれた。主イエスの「エルサレム」に対する熱い想いが爆発したのです。「エルサレム」は、ダビデが都を置いてから神の民イスラエルの政治と宗教の中心地でした。この地に神殿が建てられてから、エルサレムは神の臨在と祝福を表す場所となりました。神はエルサレム神殿にご自分の名を置くと言われ、神殿において神がイスラエルの民と共に住むインマヌエル(神、共にいます)の恵みと祝福を現してくださいました。まさに神が愛された街でした。
ところが、そのエルサレムは「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者」となってしまった。エルサレムは人間の罪の深さの極みを現す場所となったのです。王も祭司たちも繁栄におごり、危機に陥ると神に信頼することなく、むしろ人間的な解決をしようとしました。神は多くの預言者たちを送って、エルサレムの政治と宗教の腐敗を指摘し悔い改めを求め続けられました。まさに「めん鳥が雛を羽の下に集めるよう」なもの、母親が自分の子どもをかき抱くようなものでした。しかし、神が母親のような深い愛をもって送り続けた預言者たちを、エルサレムの当局者たちは殺し続けてきたのです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」。旧約の歴史が物語るのは、この預言者殺しの歴史です。エルサレムは神の深い愛と忍耐を示す舞台であると同時に、忘恩と罪の舞台ともなった。
主イエスは「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われた。神は忍耐してイスラエルの民が悔い改めることを待ち望んできた。しかし、イスラエルの人々は身を低くして狭い戸口から入る悔い改めをしなかった。やがてユダヤのすべての人がイエスを殺そうとする。その時、神はエルサレムを見捨てると預言されたのです。その時にはもう神殿が用をなさなくなる。神がもうここに住まなくなるのです。キリストの十字架の出来事は代わって新しい神の宮を造ることでした。主イエスが十字架に死なれた時、神殿の幕が真っ二つに裂け、神殿の時代が終わりました。しかし、神の救いの御業は終わりません。エルサレムの神殿が終わったところから、新しく大きく展開したのです。主イエス・キリストの十字架に始まる神の救いの御業は、新しく神を信じる多くの異邦人たちを生み出し、キリスト教会を生み出しました。神の救いの御業は挫折することはありません。どんなに拒否されても、救いの御業は拡大し前進し続けていきます。