2014年11月23日礼拝説教 「愛は時を選ばない」

            2014年11月23日

聖書=ルカ福音書14章1-6節

愛は時を選ばない

 

 主イエスは会堂の礼拝が終わった時、ファリサイ派の議員から食事に招かれた。すでにファリサイ派と対立関係にあったが、この人の招待を断らなかった。主イエスは食卓を共にすることは大切なこと、恵みに満ちた交わりと受け止めておられた。しかし、この食卓は和気藹々とした楽しいものではなかった。人々はイエスがどのように振る舞うかを注意深くうかがっていたからです。その場に「水腫を患っている人がいた」。水腫とは体に水がたまり、むくんでしまう病気で一目で分かる。勘ぐれば、どうしても目に付くわけですから、イエスがこの人をどう扱うかと、主の目の前に、あえて座らせたのかもしれない。主も彼らの意図を感じ取られていた。

 主イエスも挑戦的に問いかけられます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と。この主の「許されている」という言葉は「エグゼスティン」という言葉です。「可能であるか、どうか」、直訳「自由であるかどうか」です。安息日律法は極めて明快です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。…」。「しかし、医療行為は例外です」などという例外規定は記されていない。しかし、私たちの日常生活は必ずしもすべて律法の規定どおりとはならない。安息日でも、日常生活の中ではいろいろなことが起こってくる。主イエスが「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言われたように、実際にはどうしても「働き」「仕事」と言われることをしなければならない時も起こってきます。

 自分の子どもが井戸に落ちた。そんな時、親は気が狂ったようになって、井戸の周りを掘って広げたり、命綱を付けて下まで降りていって、血まみれになっても息子を救い出そうとする。そんな時には、律法の規定がどうだなどと言ってはおれない。ここに親の愛がある。「安息日が終わるまで待って」などという親はいない。ユダヤ教自身がそのようなことは「自由である」、つまり「許されていること」としていた。ですから、ファリサイ派の人々も黙っていた。主イエスは、病気で苦しんでいる人をいやし救うことは、それと同じではないかと、問いかけておられるのです。彼らにもよく分かったのではないかと思っています。実際、彼らもそうしているのです。ただ、そのことをはっきりと認めようとしなかったのです。

  ここに具体的に、主イエスの目の前に「病に苦しむ人がいた」。喜ぶことを忘れた人でした。水腫は内臓の疾患によって腹腔などの組織に異常に水がたまる病気です。この時代には治療方法がなかった悲惨な病気でした。この人もユダヤ人ですから会堂の礼拝には義務として出席していた。しかし、毎日の生活に喜びがありません。心は頑なになっていたかもしれない。体が病むと心も気持ちも病む。この人は、ファリサイ派の議員に呼ばれ、イエスも来られることを聞いて、ある期待を持ってこの席に身を置いたのではないか。今、主イエスの目の前で、身を小さくして座っていた。

 主イエスは、この一人の人を深く憐れみ、愛された。主イエスは席を立ち上がって、この病人のところに歩み寄って、その手を取り、いやしてあげた。体の病と痛みで苦しみ、喜びを忘れてしまった人を、安息日の喜びの中に入れてくださったのです。この個所の中心点は、安息日規定がどうなのかと言うことよりも、病いを抱えて苦しむ人に対する主イエスの愛の御業に焦点がある。主イエスは、病む人、傷む人、苦しむ人たちに対して、安息日だから明日まで待ちなさいなどと言われない、ということです。

 ここで見逃してならないことは、主イエスが具体的に実際に病人の手を取られたことです。言葉だけでなく、具体的に手を伸ばす働きをしていることです。これが愛の業、愛の働きです。主イエスの病む人への取り組みは、多くの場合、手を伸ばす働きを伴っています。このことは、今日の私たちの伝道と教会の営みにおいて見逃してはならないことです。実際に病む人の傍らに行って手を伸ばし、支え、引き上げてあげる。この愛の御手の業を伴って、主はこの水腫の人の病をいやされたのです。教会の伝道は、本来、愛の業、ディアコニアの奉仕の業を伴って具体化するのです。教会の伝道で見逃されているのが、手を伸ばすことです。私たちの身の回りにいる苦しむ人たちへ手を伸ばすことを忘れてはならない。

  「イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」。これこそが安息日の主の恵みの働きなのです。本来、律法が与えられたのは神の愛と恵みを知って、人として生きる喜びを得させるためのものでした。助けることが出来る時に、助けること。これこそが安息日になされるべき正しい働き、正しい神奉仕なのです。ですから、ファリサイ派の人たちも腹は立ったでしょうが文句が言えない。これが本当のことだということが分かっているからです。このような生きる喜びを奪ってしまうようなファリサイ派的な誤りに対して、主イエスは対決しておられるのです。

 何故、安息日が与えられたのか。安息日の律法は人を窮屈にして、人から喜びを奪ってしまうためのものか。決してそうではありません。安息日の律法が与えられたのは、神との交わりを喜び、その恵みに感謝して生きるためです。安息日の午後の食卓は、神を礼拝した喜びと恵みを共に分かち合うためのものでした。文字通り「喜びのコイノニア」(まじわり)、恵みのシェアー・分かち合いであったのです。神から命の息吹をいただいて、霊肉共に健やかにしていただいた喜びを共にする時なのです。霊肉共にいやしてくださる主にお目にかかり、主の愛と恵みに生きる時なのです。