2014年11月30日
聖書=ルカ福音書14章7-14節
神の評価を期待して
ファリサイ派の議員の家の食事に招かれた時の主イエスの卓上談話です。「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」。ユダヤ社会では「上席争い」が実際にあった。ファリサイ派の世界では「我こそは」と、自分を大きく見せる意識、それを恥も外聞もなく堂々と実行する社会でした。客として招かれた人が争って上席を奪い合う。その浅ましい姿をご覧になられて、主イエスはこの例えを語られた。
日本は謙譲の美徳の国です。上席の譲り合い、末席の奪い合いが起こる。平社員が宴会で上席に座るなど厚かましいことは出来ない。「どうぞ、どうぞ」と譲り合う。そういう国柄ですと、主イエスのお言葉は「私たちには無関係だ」と思うかもしれない。しかし、本当にそうか。私は決してそうではないと考えている。新入社員が上役を差し置いて上席に座った場合、「何だ、あいつは礼儀を弁えない奴だ」となり、後々まで覚えられ人事考査の対象になるかもしれない。日本は表面的には謙譲が美徳の社会ですが、腹の中では誰が上席に着くか、たいへん関心がある。それを表に出さない。内に隠している。ファリサイ派のように堂々と行わないだけで、一皮めくると人間の世界は、いずこも同じことではないか。
主イエスは「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と言われた。これだけを読むと、処世術を教えたのではないかと受け止められる。しかし、主イエスは決して処世術を教えたのではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。「へりくだること」を教えられたのです。人は評価されるということを願っています。俺はあいつよりも会社に貢献していると思うのに、評価されない時に腹を立てたり、くさってしまったりする。しかし、神を信じる者はどのような時にも「へりくだることだ」と言われた。これは処世術ではなく、神の国の原理なのです。
「へりくだること」、謙遜が、腰が低いことと誤解される。時には嫌な言葉ですが「謙遜傲慢」というような言い方で言われるようなことも起こる。表向きは謙遜であるが、実に傲慢極まりないという振る舞いにもお目にかかる。そんなものは謙遜でも何でもない。へりくだるとは、神の前に打ち砕かれることです。神の国は自分を低くする者が高くされるところなのだと言われている。低さを神が評価してくださるのです。この神の評価をこそ目指して生きるべきではないかと主は言われているのです。
アドベントが始まります。この時に、イエスご自身のことを覚えることが必要です。フィリピ書2章6-9節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神の独り子であるお方が身を低くされ、ご自分を無にして人となられた。へりくだりの中で、主イエスは十字架を担い、罪を贖ってくださった。主イエスのへりくだりこそ、私たちの救いの根拠です。このキリストに結ばれて、キリストのようにへりくだりに生きるのです。
次に、主イエスは招く主人の側の問題を指摘します。それはお返しを期待して招いていることです。「イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない』」。これは決して家族や友人たちとの楽しい宴会がいけないということではない。主イエスを宴会に招いた「議員」とは、ユダヤの最高議会の議員のことです。このような人の食卓に集まる人も、またそれなりに身分や地位の高い人たちであった。本来は家族の交わり、親しい人との交わりと喜びの食卓であった安息日午後の食事が、有力者や上流階級の人たちの社交の場、サロンになっていた。イエスや水腫を患っていた人が招かれてその場にいたのは刺身のツマのようなものであった。主イエスはこのような招待客の構成をご覧になって、安息日の食事のような時には、有力者や上流階級の人たちを招くのではなく、むしろ社会的な弱者、貧しい者たちを招きなさいと教えられたのです。
キリスト者の交わりでも、時にこの世の階級や階層が暗黙の規準になってしまうことがある。主イエスは「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と言われた。その理由は、お返しが出来ないからです。有力者や上流階級の人たちは返礼の食事を催すことが出来るが、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たちはお返しをすることが出来ない。返礼を受けてしまったら、報いを受けてしまったことになる。お返しの出来ない人たちの場合は、神からお返しが来るのだと、主イエスは言われた。
私たちはキリストの贖いにあずかって神の国の民とされています。私たちの生活の規準は神の目を意識して生きるのです。「コーラム・ディオ」(神の前で)なのです。人間的にどう評価されるか、どのように他人に見られるかではなく、神にどう評価されるかを基本にして生きていくのです。そうするところで神の平安がある。心の平安をもって大胆に生きることの出来る道は、神の評価を期待して生きるところです。最後に「マリアの賛歌」を読んで終わります。ルカ福音書1章51-53節「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。神の評価を期待して生きる人に、神は豊かに報いてくださいます。私たちの目当ては神ご自身からの豊かな祝福です。