2014年12月7日
聖書=ヨハネ福音書1章1-5節
初めに言があった
ヨハネ福音書が記された時、3つの福音書はもう存在し、諸教会で朗読されていた。そこで使徒ヨハネは共観福音書のように時間的枠組みに捕らわれずに「霊的な福音書を書いた」と伝えられている。主イエスの語られ、行われたことを、いつ、どこで、だれが、何を、と新聞記者が記事にするような文章ではない。説教と言ってよい文体です。イエスの弟子になって70年以上の歩みの中で、感謝と賛美、恵みのありがたさを瞑想しながら、イエスはこういうお方だ、このように信じなさい、と勧めた福音書です。
ヨハネは「初めに言があった」と記す。伝道者が最も心を砕くのは、信仰の内容を他の言語で、どのように言い換えるかです。ドイツ人ギュツラフが最初に日本語の聖書翻訳を行いました。日本人漂流民、岩吉、久吉、音吉の3人から日本語を学び、彼らの助けを借りて「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」と訳した。ある言葉の内容を他の言語で言い表すことは難しいことです。ヨハネはユダヤ人です。そのヨハネが当時の世界語のギリシャ語で、イエスの永遠性をどう表現しようとしたのか。ヨハネは「言」と言う。ギリシャ語「ロゴス」です。ロゴスという語こそ、イエスの永遠性・先在性をギリシャ語を読む人に伝えるのに最もよい表現として用いた。
「言」ロゴスとは、ヘブライ語「ダーバール」の翻訳と言われている。出来事、働き、心、理性、力というような非常に深く広い意味を持っている。このロゴスは神の言葉です。神の言葉は「神は言われた。光りあれ。こうして光があった」と記されている。光を生み出し、全てのものを存在させる力ある言葉です。ヨハネは、イエスはこの神の言葉だと記す。
「初めに」とは、歴史の始めではない。世界と歴史の始まる前の「永遠から」という意味です。人は、イエスは処女マリアからお生まれになった時に存在を始めたと思う。3つの福音書、マタイとルカはイエスの誕生から語り出します。マルコはイエスの受洗という公生涯から始めています。しかしヨハネは主イエスというお方のお言葉とそのみ業をよくよく考えると、このお方は人間としての誕生から存在を始めたのではない。歴史の中に生まれるよりもズーと前から、天地の造られる前から、永遠から存在しておられたと語り出す。これが「初めに」です。ヨハネは長い信仰生活の中で主イエスをじっと考え抜いて、このお方は永遠の存在だと確信した。これこそ、主イエスを伝える時に最も大切な点だと確信して記したのです。
「言は神と共にあった」。「言」であるお方は、神と区別されつつ、神と共存しておられる。「共に」は、違うものが一緒にいること。しかし、この「共に」は、ただ2つが並存しているのではなく「向かい合っている」「交流」を意味する言葉でもある。「言」は、永遠の神と人格的な交わりをしておられる、ということです。「言」と言われるお方は、神より劣る存在ではなく、まさしく神なのだ、イエスは本質的に神なのだ。これがヨハネの最も大切なメッセージです。イエスは神と同質であり、永遠から神と共に人格的な交わりの中におられたお方なのだと、繰り返し語る。
主イエスは生涯の中で多くの奇跡を行った。水をブドウ酒に変え、水上を歩き、病人を癒し、盲人の目を開き、死人を生き返した。これらを、どう理解するのか。水がブドウ酒になったのは周囲の人の誤解、水上を歩いたのは弟子たちの幻想と合理化して理解するのか。そのように考えたらキリスト教信仰の生命力はたちまち失われてしまう。それはイエスを普通の人間として理解する前提に立っているからです。しかし、ヨハネにとってイエスの奇跡は自分の目の前で行われた現実なのです。イエスはただの人間ではない。イエスは本来、神であり、神と等しいお方であるから出来たのだと受け止めた。イエスを神と信じる信仰が、主イエスのなさった多くの奇跡を感謝をもって受け入れさせるのです。ヨハネは、主イエスのなさった不思議な働きを記す前に、その不思議を解く鍵がここにあると記している。イエスはマリアから生まれるよりも前から存在する永遠の神であると信じるところで奇跡理解の本当の解決がある、と記しているのです。
「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。「言」であるお方は被造物ではなく、万物の造り主であるという理解です。神の天地創造は、ロゴスであるお方が、神と共におられてなされた。「よって」とは、ロゴスが媒介して万物が造られたということです。被造物の全てがロゴスであるキリストに係わりがある。キリストとの係わりのないものは何一つない。ここには世界が肯定されています。人々は、この世界は悪に満ちた世界だ、こんな世界を神が造ったとは思えないと主張する。今日、世界を見ると、悪いことばかりです。戦争、饑餓、欺き、収奪…。現実のこの世界の中にある全てのものが、そのままで是認、肯定されているのではない。そこには人間の堕落と罪の問題があるからです。神がこの世界の悪と堕落も肯定し是認しているのではない。
しかし、世界の中にあるどんなものも、神とキリストによって存在していると語るのです。ですから、救いの希望がある。預言者イザヤは、人間の救いを神の創造に根拠づけている。イザヤ書46章4節「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と語る。キリストが創造の媒介者である。そのため、被造物が罪に陥った時、キリストが回復して下さるのです。永遠の言であるお方が、なぜ救い主としてこの罪の世に、地の上に立たれたのか。なぜ神であるお方が、人の救いのために身を低くして十字架を担われたのか。神がこの「言」であるお方を媒介にして天地を造られたからです。創造を根拠にして救済と回復があるのです。