2014年12月14日
聖書=ヨハネ福音書1章6-13節
神の子となる資格
使徒ヨハネは、イエスが神であるというキリスト教信仰の核心部分を記し、次に誰れが救われるかというもう1つの核心を記します。ヨハネ福音書は1章1~18節までを読んだら、最も大切な事柄はこれだと分かる構造になっている。だれが救われるのか、救われるためには何が必要か。求道者にとって最も大きな問いではないか。キリスト教と無関係な生活をしてきた自分も救われるのだろうか。私も教会に行き始めた頃、そう思いました。教会に行ってあたりを見回すと、みんなすばらしく見える。当時、高校生でしたから見る人みんな偉く見える。みんな神様に近く見える。教会に来ている人を見ると、すぐに聖書を開けられる、讃美歌も堂々と歌っている。堂々たる人生を歩んでいるように思える。関係のない世界から飛び込んだ者は救われないのではないかと思う。そんな時に、牧師からヨハネ福音書1章12,13節を示されて読んだ。「目から鱗が落ちる」という言葉があるが、ハッとさせられた。私は、それ以後もいろいろな劣等感に襲われることがありますが、この箇所に立ち戻る時、キリスト教信仰とその救いの恵みのすばらしさ、ありがたさに感動させられてきました。
ヨハネは「その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである」と語る。キリストが全人類に対して持つ独特な位置が語られる。主イエスは「わたしは世の光である」と言われた。世の光であるキリストの恵みを語る。太陽がこの世界に対して持つ位置と同じ立場に立っているのです。キリストは全ての人を明るく照らす光、温かさを与え、命と健康を育み、成長させ、豊かな実りを与えます。人間だけでなく、生きとし生けるもの全てがキリストの恵みに与かっている。太陽と同じように、貧富の隔てなく、人種・国籍の区別なく、全ての人に恵みを与えておられる。キリストはキリスト者と教会だけの専有物ではなく、全世界に命と恵みを与えるお方です。キリストは普遍的、ユニバーサルなお方です。
ヨハネはさらに「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と語ります。「言は世にあった」。神の言・神の知恵、神の英知は世界に満ち満ちている。パウロはギリシャ文化の中心地アテネで伝道した時、芸術や哲学を生み出した人たちに説教した。「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも『我々は神の中に生き、動き、存在する』と言っている通りです」(使徒言行録17:27,28)と。自然界の中にも、人間が生み出す文明や文化の背後にも、神の知恵、神の英知がある。これはギリシャから始まるヨーロッパ文明のことだけではない。東洋や日本の文化の背後にも神の知恵、神の英知があることを忘れてはならない。人は創造の世界に働く神の知恵と英知の中で生き、動き、成長し、文化を営んできたのです。
しかし、ヨハネは言う。「世は言を認めなかった」。この世は、創造の世界に働く神の知恵と英知を認めなかった。パウロは記します。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(ローマ書1:20) 。自然の世界にも、人間が生み出すものごとの背後にも神の知恵と英知がある。しかし、世はそれを認めようとしない。ユダヤ人だけが背神の民ではない。ヨハネは世界中の人間が神を認めようとしないと、その決定的な背神性、反逆性を指摘している。この世界の反逆性が、イエスの到来において明確になった。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。キリストはご自分の家と言えるところに来た。主人が自分の家に帰って来た時に、家の人たちが主人を閉め出してしまった。神はイスラエルの民を選び、エジプトから解放しカナンの土地に導き入れてご自分の宝の民とされた。神の言葉である律法によって導き、多くの預言者を送って教育し訓練し、やがてメシア・キリストが来ることを予告してきた。ところが、言であるお方がキリストとしてベツレヘムで生まれた時、ご自分の民は救い主を拒んだ。泊まるべき宿はなかった。十字架に付けよと叫んで殺してしまった。
ヨハネは、「しかし」と言います。人間の反逆に対する神の抵抗と言ってよい。人々から拒まれた中で、言であるお方は新しい人類を造られた。古くからの民に拒まれたからと言って、救い主の使命を放棄されずに、新しく神の民を造られたのです。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」のです。神の言であるキリストは新しい神の民、新しい神の家族を造られたのです。それがキリストの教会です。新しい神の子たちの集い、神の家族です。
神の子となる資格は「言であるキリストを受け入れる者、その名を信じる人」です。これこそ救いの唯一の条件です。ユダヤ人であるかないかは、どうでもいい。国籍や民族、貧富、性別、身分、才能のあるなしなどの一切の外的、人間的な区別や差別はない。救いはどのような人間的な区別や条件にもよらない。能力にもよらない。神の子となる資格は何か。キリストを受け入れたらよろしい。キリストを信じたら、それでいいのです。イエスを我が主、我が神として心を開いて迎えることです。「神によって生まれたのである」。神の一方的な恵みによって、神の霊・聖霊が与えられて、神を信じる信仰が与えられます。信じる者とさせていただいたのです。このことは、長く信仰の生活をしてまいりますと、本当にそうだと合点がいく。自分の力ではなかった、神が働いて下さったと感謝が生まれる。クリスマスは、この私が、この自分が、神の子とされた恵みを喜ぶ時です。