2014年12月28日
聖書=ルカ福音書14章15-24節
まだ席があります
主イエスが安息日の午後、あるファリサイ派の議員に食事に招かれてなした卓上談話です。主イエスの手厳しい批判をそらそうとした。この地上の食卓には多くの問題がある。下品なこと、差別、欠けもある。しかし、神の国の食卓は完全だ。そして、我々はもれなく神の国の幸いな食卓に必ずあずかれるという自負心が込められています。これに対して、主イエスはそれは大きな間違いだ、大逆転が起こるのだと言われたのです。
ここで語られていることはただ1つ。神の国の食卓に本当に着くことが出来るのは誰かです。主イエスは「ある人が盛大な宴会を催そうとした」と話し始めました。神によって救いの恵みにあずかり、義と認められ、神の子とされた人たちが、神の祝福された盛大な祝宴にあずかれる。救いの完成のイメージです。救いの恵みの確証です。問題は、この神の盛大な晩餐会に本当にあずかれるのは、いったい誰なのかということです。
この時代のユダヤ社会では正式な晩餐会、例えば婚宴などを催す時には2重の手続きでお客を招いた。まず宴会の開催の日時を知らせて出欠の返事をもらいます。次に予定した日に、用意がすっかり整ったところで、出席すると返事した人たちにしもべを派遣して「さあ、お出でください。もうすっかり用意が出来ましたから」と伝えます。たいへんていねいな招き方です。主イエスの語り出しは、この2回目の招きから始まります。
最初の招待を受けた人は皆「まいります」と応えた。しかし、実際に2回目の直前の招きに、みんな断った。「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。…』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。…』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」。これらの3人は招かれた人たち全体を表す3人です。ほとんどの人がすっぽかした。
皆さんの結婚式の時に、こんなことが起こったらどうしますか。返信用葉書に「出席」と返事し、当日になったら皆申し合わせたように「行けません」と言って、だれ一人出席しない。人を馬鹿にしている。こんなことだったら披露宴など開けない。神の国の晩餐会で同じことが起こっている、と主イエスは言われた。「盛大な宴会」を断った人たちとは、最初から神の招待を受けた神の民イスラエルを指しています。彼らは、旧約の長い歴史を通して神に招かれていた。アブラハムを通して、神は彼らを招かれた。彼らが受けている割礼こそ神の招きの約束を示している。だから、彼らも自分たちは神の国の祝宴にあずかることは確かだと確信しているのです。
ところが最初から招かれていた人々は、食卓の用意が出来上がった段階でなされた第2の正式の招きを断ってしまった。「もう用意ができました」とは、救いのご計画が成就したことです。神の独り子であるお方が人となってこの世界に降り、罪を償う贖いの用意が完了した。神はその独り子を犠牲にして晩餐の用意を整えてくださった。ところが、イスラエルの人々はその招きを断り続け、ついにキリストを葬ってしまったのです。
しもべは主人に断られたことを報告します。主人はどうしたか。主人に例えられているのは神です。主人は怒り、悲しみます。では、主人は宴会を中止したか。しなかった。招く方向を変えた。僕に「急いで町の広場や路地へ出て行け」と命じます。街の広場や路地にいる「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」たち。「彼らをここに連れて来なさい」と命じた。ここから神の招きの方向が大転換したのです。「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招くことこそ、主イエスがなさったことです。主イエスの周りに集まってきたのはこのような人たちでした。さらに遊女、徴税人、罪人と言われる人たち。彼らは会堂からも神殿からも排除されていた。この人たちが主イエスを求め、いやされ、慰めを受けた。神の国はこのような者たちの国なのです。
しもべはなお言います。「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と。主人は命じます。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。この命令こそ、異邦人世界への招きの言葉と言っていい。この時代の町は町囲いという外壁・城壁によって囲われていた。「通り」とは「町囲みの外の大通り」です。小道とはその大通りの枝道です。町囲みの外に住み、そこに往き来する人とは、寄留の人々、外国人、隊商たちです。異邦人、外国人でかまわない、誰であっても連れてきなさい。食卓を一杯にするのだと命じている。
救いに対して何の権利もない異邦人を招いて下さいます。全世界への、全ての人たちへの福音宣教の始まりです。主イエスは、この例えをもって世界宣教への取り組みを命じておられます。今日の私たちは、この招きの中にあるのです。主イエスは、驚くべき神の招きを語りますが、同時に招きを断る人がいることを明確に語ります。招きを断るのは決して主イエスの時代のユダヤ人だけではありません。仕事が忙しいから、仲間のつきあいがあるから、家族の問題があるからと、多くの理由で神の祝宴への招きが断られます。ある神学者は「ここに現代の罪がある」と言う。人間の心に奥深く巣くっている罪とは、神が招いていて下さるのに、それを断る罪だと指摘しています。原罪の深刻な姿です。私たちの生活をよく見てください。自分の都合優先、目先の損得、自分勝手、自己中心です。人間の心の奥に巣くう罪の現実です。「無理にでも」とは、人間の罪を突き抜けてということです。罪に勝つのが神の恩寵です。聖霊の働きがあるところで罪が打ち砕かれ、やがて神の国の食卓は必ず一杯になることを信じます。