2015年1月11日礼拝説教 「弟子としての覚悟」

              2015年1月11日

聖書=ルカ福音書14章25-33節

弟子としての覚悟

 

 主イエスは、「群衆」と呼ばれている人たちに厳しいことをお語りになった。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と。この直前に、主イエスは「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、…をここに連れて来なさい。…通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来てくれ」と言われた。誰でも連れて来い。どんな人でもOKだ言った。他方で厳しい条件を付けている。矛盾ではないかと言う人もいる。確かに矛盾と言える。しかし、これが主イエスの招きです。何の功績も資格もない者に神の側から声をかけ、神の宴会に招いて下さいます。しかし、神を軽んじ、大勢で行けばなんとかなるだろうとの甘い期待は許されない。

  「わたしの弟子ではありえない」という言葉が3回繰り返されている。主イエスはご自分の弟子とは、こういう覚悟をする人だと言われた。キリストを信じることは神の招きの言葉を聞いて主を信じるだけです。しかし、キリストの弟子として生きることは簡単なことではない。では、どういう覚悟が必要なのか。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。「憎む」とは強い言葉です。家族や自分の命を憎むとは穏やかではない。勿論、文字通りに家族を捨てることではありません。例えです。聖書は家族を大切にすること、家族を愛し、他の人の命だけでなく自分の命を大切にすることを命じています。しかし、ここにキリストの弟子としての覚悟が示されている。それが「キリストへの服従」です。

 ここに修道の問題が生じる。カトリックの修道士は、この主イエスの言葉をキリストへの服従の課題として真剣に受け止めた。文字通りに家族を捨て、自分の欲望を捨てて、自分の十字架を負って主に従い続けようと志した。プロテスタント教会は修道院を批判し、制度そのものをなくしました。しかし、私は修道の志を高く評価します。キリストへの服従を抜きにしたキリスト教は甘ったるい宗教になってしまう。「キリストに従う」、この決断なくしてキリスト教信仰はあり得ない。プロテスタントは修道院を廃止したから、服従や修道などいらないのだと理解したら大間違いです。

 問題はキリストに従う決断です。この決断を、どこで、どう行うかです。私たちはまことに弱い人間です。主イエスはこの人間の弱さを見据えています。使徒たちは修道士ではなかった。使徒の多くは家族を持っていたようです。家族は決して悪ではない。しかし、家族を気遣い、家族に遠慮して、信仰者として真っ直ぐに神に向かうことが出来なくなってしまうことがある。信仰者としてキリストに従うべき時に、個人的な利益や趣味を優先してしまうことがある。キリストに従う決断を修道院に入る時に「一度限り」するのではない。私たちは日毎に、生活の場で、キリストに従う決断をしていくのです。キリストへの服従は一度限りではなく、日毎の生活の場での具体的な決断なのです。ここに私たちの服従がある。

 1つの事業をしようとすると、ある覚悟が必要になる。信仰者として生きる道は厳しい服従が求められる。簡単にキリスト者になるのではない、熱に浮かされて伝道者になるのではない。よく考えろ、と言われた。それが1つは「塔の建築」の例え、2つは「戦争」の例えです。2つですが語ろうとしていることは1つです。事に当たる前に腰を据えて熟慮し計算しなさいです。しかし、これは信仰を全うすることなど出来そうもないから、入らない方がよいと考えるのか。主イエスはそんなことを言っているのではない。腰を据えて冷静に計算することです。世の計算ではなく福音の計算をする。福音の計算とは神を見つめての計算です。神を計算に入れること。私たちは普通、あわてて「神」を人生の計算の中に入れないでしまう。

 神を計算に入れてバランスシートを考える。左側の資産の部に、神が私に求めていることを計上する。神が求めることは私が捨てるものです。私たちの資産です。「わたしのために捨てられるか」と問われている「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも」です。さらに「自分の十字架を背負ってついて来る」服従です。神を第1にして、神に従って捨てるべきもの。これがバランスシートの資産の方です。次に、神の差し出しておられるもの、私たちが受け取るものを右の負債の部に記す。信仰義認、罪の赦し、聖化の恵み、神の子とされた。永遠の命。救いの完成と完全さ。主イエスが今も一緒にいて守り支えてくださること。急ぐ必要はない。ゆっくり数えていい。福音派の聖歌の中に私の好きな歌がある。「数えて見よ、主の恵み。数えよ、一つずつ」と歌う。腰を落として冷静に計算したら、このバランスシート、どちらが重くなるか。

 最後に申し上げます。冷静に考えて、左の資産として計上した神の要求に対する私たちの服従がどれほど応えられるのか。どんなに計算しても、残念ながら自分の力で主イエスの要求を満たすことは全く出来ない。我が資産として繰り入れることの出来る服従と放棄とは限りなくゼロに近い。このバランスシートは最初から完全に破綻している。このことが多くの人には見えない。腰を据えて計算しない人には分からない。破綻したバランスシートを成り立たせているのは神の愛なのです。神が一切をカバーして下さる。これが福音の計算式なのです。「捨てる」とは、自分の弱さを本当に自覚して、手を挙げて降参してしまうこと、すべてを神に明け渡すことです。そうすれば、神ご自身が全部をカバーし、働いて下さいます。