2015年1月25日礼拝説教 「失われたものへの神の愛」

              2015年1月25日

聖書=ルカ福音書15章1-7節

失われたものへの神の愛

 

 主イエスがお語りになった3つの例え話はキリストにおいて示された神の愛…人が犯すどんな罪よりもなおはるかに強い神の愛が語られています。3つの例え話を理解するには、主イエスがこれを語った経緯と状況を理解しておかねばならない。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。当時のユダヤ社会では、食事を共にすることは互いに仲間であること、兄弟と認め合うことを意味していた。ファリサイ派や律法学者からすると、徴税人や罪人と一緒に食事することは考えられないことだった。「徴税人」とはユダヤの富をローマに引き渡す売国奴、税金を口実にして自分の懐を肥やす知的強盗と見なされていた。「罪人」とは仕事をしないで生活していた人々…遊興の徒、やくざ、遊女です。ユダヤ社会から爪弾きされていた。

 そのような人たちが主イエスの周りに集まってきた。イエスも彼らが自分の周りに来るのを拒まなかった。むしろ、積極的にこの人たちを仲間として受け入れた。弟子の中にも徴税人がいた。主イエスはユダヤ社会から爪弾きされた人たちと交わり、食事をし仲間になった。ファリサイ派、律法学者には理解できなかった。彼らは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難した。それに対して、主イエスはユダヤ社会から爪弾きされてきた人々を迎えて仲間になり、食卓を共にする理由をこの3つの例えでお語りになられた。この3つの例え話は福音の要約です。

 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、…」。パレスチナで羊を飼うことは、のどかなものではありません。至る所に崖や灌木が生えている荒れた危険なところが多い。山犬やオオカミも出没していた。「羊」という動物が問題です。弱い愚かな存在です。羊は迷った時、自分で巣に帰る本能が乏しい。迷ったら迷ったまま。羊には武器になるものがまったくない。角も牙もない。兎のように耳が発達してもいない。速い足もない。敵が来たら簡単に餌食になってしまう。この弱い愚かな羊に例えられているのが私たち人間です。人間は羊のように弱く愚かな存在ではないかと、主イエスは言外で語っているのです。

 百匹の羊を持っている人が羊を放牧に連れていき、夕方になり連れ帰るため羊を呼び集めた。1匹足りない。何度も数え直しても1匹足りない。あなたが羊飼いだとしたら、どのように判断し処置するでしょう。99対1です。私だったら、もう夕方で暗闇が迫っている。1匹は惜しい。しかし、この1匹のため他の99匹を危険にさらすわけにはいかない。多数を犠牲には出来ない。いなくなったことは損失だが、来年になれば新しい羊も生まれる。99匹を大切にしよう。損害を出来るだけ少なくする。

 ところが、この羊飼いはまったく違う対応を取る。99匹をそこに残したままで、「失われた1匹」を捜し回った。そして主イエスは「こうしないだろうか」と言われた。これが当然ではないかと言われた。実は、これは99対1という経済の問題ではない。この例えを経済的な視点から考えて、こんな馬鹿なことはないと言ってしまう。しかし、この例え話は経済の問題ではなく神の愛の物語です。この例えが語りたい第1点は、見失われた1匹の羊の絶大な価値なのです。取り替えがきかない1が大切なのです。この1匹こそ決定的な重さと意味を持っている。羊は私たち人間を例えていると言いました。一人の人は取り替えがきかない特別な意味と重さを持っている。残りの99匹も全部1つ一つなのです。あなたも、あなたも、そして私も、神は取り替えできない固有の1人として扱って下さいます。神の前から失われた一人を大切に思って、追い求めてくださるのです。

 この羊飼いにとって羊は深い愛情の対象なのです。持ち主のところから失われているとは、神と人間の関係を示している。神によって造られ神と共に生きるべき人間が、神を離れ神の前から失われた。人間の本当の惨めさがここにある。人間の本当の惨めさは、病気であるとか、貧乏だというようなものではない。神から離れてしまっていることこそ人間の惨めさの根源なのです。方向感覚を失って自分勝手に生きることが正しいことだと思いこみ、サタンの声を正しい導きだと思い込む弱く愚かな存在です。

 しかし、神は、この失われている一人の人を徹底して探し求めてくださるのです。ここに神の愛がある。神は失われている者を深く愛しているのです。聖書の神は、最初から失われたものを訪ね求める神です。罪を犯したばかりのアダムとエバを訪ね「あなたは、どこにいるのか」と言われた。この時から、神は失われたものを探し求める神となられたのです。1対99の問題ではない。神は初めから一人の罪人を捜し求める神なのです。ですから主イエスも、「探し求めないだろうか」、「探し回るのが当然だ」と言われたのです。この例えは失われたものを訪ね求める神の愛の物語なのです。人間の絶大な価値と言うよりも、本当はまったく価値のない、失われたものに価値を見出してくださり、その失われたものを探し求めてくださる神の主権的な愛が主題なのです。

 主イエスご自身が「わたしは良い羊飼いである」と言われました。失われた羊をトコトン捜し回って、ついに見出した喜びに溢れる羊飼いとは、主イエスご自身なのです。見失われた羊とは、あなたであり、私です。私たちは今、主イエスによって見出されて神の元に回復されているのです。