2015年2月1日
聖書=ルカ福音書15章8-10節
神の喜びへの招き
ルカ福音書15章には3つの失われたものの例えが語られています。第2の例え話の主人公は女性です。失われたものは「ドラクメ銀貨」1枚です。ドラクメ銀貨1枚は1デナリオンと等価で、1デナリオンは労働者1日の稼ぎ。1枚1万円と言っていい。持ち主である女性は1枚の銀貨を見失うと探し求めます。主イエスは「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われた。「捜さないだろうか」と疑問形で語られた主イエスのお気持ちは「捜して当然だ」と言うことです。
ドラクメ銀貨1枚は約1万円。この金額は決して少ないものではない。しかし今日、日本の多くの女性は1万円なくしたと言って気が狂うほどに必死に捜すだろうか。この物語を理解するには、イエスの時代の女性の置かれていた社会的な位置、そしてドラクメ銀貨に込められた意味を理解しないと、この物語の本当のところが見えてこないと、思っています。
この時代、女性は独立したお金を持っていなかった。お金の管理は全部主人がしていた。では、この女性が持っていた10枚のドラクメ銀貨は、どういう意味のお金だったのか。この時代、結婚した女性はドラクメ銀貨を10枚ほどまとめてネックレスみたいにして首に懸け肌身離さなかったと言われている。あるいはタンスの奥に密かに仕舞っていた。ある聖書の学者は、このお金は女性が嫁いできた時に、実家の親から「何かあった時に使いなさい」と渡されたものではなかったかと推測しています。
この時代の女性は簡単に離縁された。離婚は男性の一方的な権利です。子を生まない、夫や夫の親に口答えする、命じられた仕事・家事ができない、何でも離縁の理由になる。極論すれば「嫁の顔が気に入らない」でも離婚の理由になった。離縁して放り出されたら、その日から生きていけない。社会的な保証はない。物乞いになるか。そのため娘を嫁に出す時に、実家の親が「いざという時に、実家に帰り着くことができるように」と渡されたのが、このドラクメ銀貨10枚ではないか、と言われている。
こう考えると、この女性が火がついたように、気が狂ったように懸命に捜す理由が分かっていただけると思う。ドラクメ銀貨1枚に彼女の命が懸かっていると言っていい。自分の命の保証みたいなものです。だから「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す」のが当然だろうと言った主イエスの言葉が生きてくる。通り一遍の捜索ではない。昼間だけではなく夜になっても灯りをつけ、家中を徹底的に念を入れて探し回る女性の姿が浮かび上がってくる。1枚の銀貨は自分の命のようなもの、貴重なものです。ですから必死に捜す。主イエスは、このことはあなたがたファリサイ派や律法学者でも分かるはずだ。自分にとって大切なものは、誰であろうと必死になって捜すのではないかと言われた。この姿こそが、神の前から見失われた罪人を追い求める神の姿だと言われたのです。
1枚の銀貨を「無くした」と、新共同訳では「無」という訳語を用いた。「無」とは非存在を意味します。「無」という漢字を用いたのは間違った訳語の選択だと思う。ドラクメ銀貨は「無になった」ではなく「見失った」のです。ドラクメ銀貨は持ち主の手から離れて失われている。決して無になったのではない。どこかに存在している。存在しているけれど、持ち主の手元から失われている。これが私たち人間の存在を表しているのです。人間は罪を犯し神の元を離れてしまった。神から失われている。決して無になったのではない。人間として存在している。ただ神から離れ、神の前から失われている。この個所の翻訳では「無」は使ってはならない語です。
ドラクメ銀貨は持ち主の手元を離れた結果、銀貨としての本来のあり方が出来なくなっている。ドラクメ銀貨も通貨です。持ち主の手にある限り、銀貨は通貨として用いることができる。銀貨の役割を果たすことが出来る。しかし、持ち主の手を離れて、どこかふらふらと行ってしまった。銀貨がどこかに存在することは確かですが銀貨の用をなさない。これが神の前から失われた私たち罪人の姿です。私たちも神の形を持つ一人の人間として、ここで生きている。しかし、神の元に帰らないと人間としての本来の働きは出来ないのです。神の栄光をあらわし、神を喜ぶ人間の生き方は、本来の所有者である神の元に立ち帰ったところでなされるのです。
見つけたら大きな喜びが記されています。パーティを開いたら、銀貨1枚分よりも出費が出てしまう。しかし、これが神の喜びです。主イエスはこの喜びを「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」ことの現れだと語っている。「罪人の悔い改め」という言葉が出てきます。「悔い改め」(メタノイア)とは、方向転換をすることです。心の向きを変えて神の元に帰ってくることです。しかし、失われた羊も失われた銀貨も、特別に悔い改めなどはありません。失われた羊は自分で羊飼いの元に帰ったのではない。銀貨も同じです。自分で持ち主の元に帰ったのではない。
この例えが示していることは、持ち主が、つまり神が一方的に探し出してくださる。神が見つけ出してくださる物語です。しかし、主イエスはこれが「罪人の悔い改めだ」と語っておられる。ここに実は私たちの悔い改めを可能にする土台、根拠が語られているのです。持ち主の懐に戻って、私たちは悔い改めの言葉を語り出すことが出来るのです。罪人の悔い改めは、基本的に神の愛の御業です。神ご自身が失われたものを必死に探し求めてくださる。ここに悔い改めて救いにあずかるための土台が据えられているのです。神の捜し求めこそ、私たち罪人の悔い改めの根拠なのです。