2015年3月1日
聖書=ルカ福音書16章1-13節
断固たる決断
この箇所は、どうしてイエス様がこんなことをお語りになったのかといぶかしく思うところです。「不正な会計管理をお褒めになるとはどういうことだ」、「まるで不正を働くことを勧めている」ように受け取られかねない。主イエスは悪事そのものをお褒めになられたのではありません。「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」と記されています。主イエスを取り囲む弟子たちに対する警告の言葉です。イエスはファリサイ派の人々を痛烈に批判されただけでなく、弟子たちに対しても遠慮なく警告の言葉を語っているのです。主イエスは弟子たちが抱えている問題点を指摘して、キリストの弟子はどういう生き方をするのかということを教えたのです。
主イエスは「ある金持ちに一人の管理人がいた」と語り出された。金持ちの主人は都会に住んでいて地方に店舗を持っていた。自分で直接、店舗を管理しないで管理人を派遣して店舗の経営管理一切を委ねていた。この管理人が例え話の主人公です。管理人には2つの使命がある。1つは、主人に従うことです。主人から管理を委ねられているので、主人の意志に従うことです。第2は、管理人には独立して行動しうる自由が与えられている。財産は自分のものではないが、主人の利益になるように管理運用する自由を持っていた。これが管理人です。単なる奴隷ではない。
管理人は自由裁量権を悪用して勝手に主人の財産を横領していた。管理人の横領に気づいた部下が見かねて主人に知らせたのでしょう。主人は管理人を呼びつけ「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言われた。「会計報告を出せ」という命令は、これから調査するから資料を出せではない。主人は部下からの告発を受けて、もうすでに十分に調査して管理人の悪事を確認している。「会計報告を出せ」とは事務引継ぎのためです。主人は「もう管理を任せておくわけにはいかない」と結論を出している。
管理人にとっては人生の破滅は目前です。クビになることは決まっている。管理人として自由裁量権を振るうことが出来るのは、会計報告を提出するまでの僅かの時間しかありません。管理人は、待ったなしの状況の中で、人生の破滅を目前にしてどう対処したか。管理人は考え抜いた。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」。そこで管理人は負債のある人を次々に呼び出します。「『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい』。また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』」。減額した量は半端なものではない。負債を持っていた人たちは驚くと共に大いに感謝した。何故、管理人はこんなことをしたのか。クビになった時、この人たちが恩義を感じて、自分の将来の面倒を見てもらおうとしたからです。
管理人のやったこの悪事は、すぐに主人にも分かりました。ところが主人は「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」のです。「不正な管理人の例え」はここで終わります。その後は、主イエスの解説です。主イエスご自身が「不正な管理人」「不正だ」と言われています。例え話は本来、漫画などと同じに強調と省略の物語です。強調されている点は何か。第1は、賢さ、抜け目なさです。ここでの「賢さ」は生きることに関わる賢さです。自分の将来を冷静に計算して、恥知らずとも言えるような方法で自分の生きる道を切り開いていく。将来、自分を迎えてくれる人を得るため管理人として残されている時間を賢明に、有効に用いたのです。
私たちの人生もこの管理人のようなものと言えないでしょうか。この人生がいつまでも続くのではない。終末がある。やがて神の審判の前に立つべき時が迫っている。その時の切迫をどれほど真剣に受け止めているか。主イエスは弟子たちに警告しているのです。あなたがたは肉体の天幕が朽ちる時に、永遠の住まいに迎えてくれるための備えをしているか、と問うているのです。この世の人は生きるために真剣にあくどいまでに知恵を働かせている。何故、キリストの弟子たちは永遠の住まいのために真剣に知恵を働かせようとしないのか、と言われているのです。今、許されている限りある時間の中で、富、才能、時間、力を、永遠の住まいを得るためにどれだけ有効に用いているかと、主イエスは尋ねておられるのです。
強調する第2の点は、自分が生き抜くために徹底することです。この管理人が行ったことは悪いことです。しかし、彼は自分が生き抜くために徹底した。クビになることが分かっています。そこで今の主人に取り入ろうとはしない。やがて自分を迎えてくれる人を得るために徹底して尽くした。今までのご主人にもいい顔をし、同時に将来のご主人の好意も得ようという二股をかけるようなことをしない。中途半端なことをしません。古い主人の財産を使って、自分を迎えてくれる新しい主人を得るために徹底した。主イエスが褒めているのは、この徹底性です。断固たる決意です。
私たちの信仰生活は中途半端なところがあります。神にも富にも仕えたい、というのが私たちの本心ではないでしょうか。実際には世の人たちと変わらない生活をしている。神様のためにも生きたい。この世でもうまくいきたい。中途半端な生き方です。主イエスは、私たちのそういうところを厳しく見ておられるのです。主イエスは、「あなたがたは光の子だ。神の国の民なのだ。神の国を得るために徹底しろ」と言われているのです。