2015年4月5日復活節礼拝
聖書=ヨハネ福音書20章24-29節
復活の主を信じる幸い
今日、私たちはイエスの復活を目で見ていないが、どうして復活を確信できるのか。そこに立つのがトマスです。彼は私たちの代表です。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」。共観福音書では使徒のリストの中だけに登場する目立たない弟子です。しかし、ヨハネ福音書では重要な人物です。トマスは「ディディモ」と呼ばれていた。「双子」あるいは2重という意味です。トマスは双子であった。けれど「ディディモ」は双子と言うだけでなく彼の性格を表している。二つの相反する性格を持っていたのではないか。「熱い信仰者トマス」、もう一つは「疑い深いトマス」です。
最初に記されているトマスの言葉はヨハネ福音書11章16節です。ベタニア村のラザロが重病という知らせを聞いた主イエスは「もう一度、ユダヤに行こう」と言われた。弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と反対する。トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言う。主と一緒だったら、死に至るまでもついていくという表明です。素直な熱い信仰者としての側面がここにある。
トマスのもう1つの側面がある。疑い深いトマスの側面です。主イエスがゲッセマネの園で捕らえられた時、トマスも他の弟子たちと同じに逃げてしまった。かつて「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったが、いざという時に逃げてしまった。弟子たちはやがてペトロを中心に集まりだした。ところが彼はその中に加わろうとしなかった。逃げ去った自分のふがいなさ、情けなさに失望し深く傷ついていたのかもしれない。他の弟子たちのように気持ちの切り替えができなかったのかもしれない。主イエスの復活の日の夕べ、トマスは弟子の集まりの中にいなかった。
トマスがどこかに行っていた間に、主イエスはよみがえり、弟子たちに現れた。復活の主イエスにお目にかかった弟子たちは喜びに満たされ、主が生きておられることを確信して生き生きとしている。やがてトマスも他の弟子たちと合流する。すると弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と証言する。非常に簡単な言い方だが、弟子たちの喜びと確信が表されている。生ける主を見た。主は生きておられると喜びの報告です。
トマスは切り返すように「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言う。彼の疑い深い性格が頭をもたげてきた。一度死んだ人間が生き返るなんてあり得ない。人間世界の鉄則だ。「この目で、この手で、確かめなければ信じられるか」と。このトマスの言葉を近代の科学的実証主義と考えることもできるが、それほどトマスが実証主義とか科学的思考の持ち主であったわけではない。トマスだけでなく他の弟子も、主の復活を信じていなかった。「あなたこそ、生ける神の子キリスト」と告白していても不充分な理解しか持たなかった。イエスの復活を女たちから聞いた男の弟子たちも信じなかった。ただ彼らはトマスのように「この目で、この手で、…」と言わなかっただけです。
なぜ、トマスはこんなに疑い深かったのか。彼の性格と見ることもできるが、ヨハネ福音書は彼の不信仰の真の原因を「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」と示す。主が復活され弟子たちの群れに現れた時に、トマスは一緒にいなかった。ヨハネ福音書は、ここに彼の不信仰の原因があると指摘している。疑い深い性格の問題よりも、彼が弟子の群れの中にいなかったことを重視している。信仰は信仰共同体としての教会を離れては成り立たない。トマスの疑い深さは生来のものであった。しかし、「この目で、この手で、…信じられるか」と語らせたのは群れから離れていたからです。信仰は、信徒の群れである教会から離れては成り立たないことを覚えねばならない。
しかし、主イエスはこのトマスを信仰に回復してくださいます。今度はトマスも群れの中にとどまっていた。8日の後、弟子たちの中に現れて、主イエスは再び「あなたがたに平和があるように」と言われた。教会は主の日に集う弟子たちの中に臨在する主の祝福によって生かされるのです。そして、主イエスはトマスに言います。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。主は、疑い深い、最も不信仰な人を目指してお語りになります。「私のように不信仰な人間が礼拝に出ても意味がありません」と言う方がいる。礼拝の中に臨在してくださるキリストは、最も疑い深い人、不信仰な人に向かって語りかけるのです。十字架の傷跡を示し、確かに復活して生きておられることを示された。
トマスは驚きの中で言います。「わたしの主、わたしの神よ」と。ヨハネ福音書の頂点である信仰の告白です。十字架につけられ無残に殺されたイエスが復活し生きておられる。まことの主なる神である。自分の生き死に深くかかわるお方として「わたしの主、わたしの神よ」と語る。十字架の主、復活の主を目の当たりに見た人の信仰告白なのです。疑い深いトマスに、なぜ、主イエスはご自身を現してくださったのか。それは不信仰な人間の代表のようなトマスが、その目でしっかりと見て信仰を回復することによって、不信仰な多くの人たちが信仰を持つためためです。彼は後の時代の不信仰な私たちのための証人として用いられたのです。疑い深いトマスに御自身を現してくださったことによって、今日、聖書を読む私たちが主イエスの復活が確かであることを確信するためなのです。