2015年4月12日礼拝説教 「悔い改めと赦しの共同体」

              2015年4月12日

聖書=ルカ福音書17章1-4節

悔い改めと赦しの共同体


 「イエスは弟子たちに言われた」。さらに5節「使徒たちが」と記されます。ルカ福音書が記されたのは紀元60年代と言われている。ペトロやパウロの異邦人伝道によってあちこちに教会が建てられていた。いずれも発足間もない若い教会です。福音書記者ルカは、若い教会の会員を念頭に置いて多くの資料の中からイエスの教会についての教えをここに記した。これから教会を建てていく時の主イエスの注意の言葉をまとめたのです。

 教会はキリストを信じる信徒の群れです。しかし、信仰共同体の中から生き生きとした信仰が失われてしまうことも起こる。その原因の1つがつまずきです。主イエスは「つまずきは避けられない」と言われた。主イエスは極めて現実的です。弟子たちの中に罪や争い、誤解、醜態が起こることを十分に知っておられた。教会は聖人君子の集りではなく罪人の群れです。何年も教会生活をしてきた人が「教会の中にあんな人がいるのは耐えられない」と言う。おやおやと思う。イエスは弟子の群れの中に争いやいさかいなどはないという甘い理想主義は持っていません。教会がこの世にある限り、教会員がこの地上で生活している限り、つまずきは避けられない。このことをしっかり見据えて教会は営みをしていくのです。

 「つまずき」とはスキャンダロンという語です。「罠」「噛みつくもの」という意味です。「つまずき」と言うと小石程度を考えて、また立ち上がればいいと簡単に考えます。主イエスが言われる「つまずき」はもっと決定的なものです。鳥や獣が罠にかかると捕らえられて殺されてしまう。「つまずき」は、兄弟たちの信仰の成長を一時停滞させるだけでなく、兄弟たちをキリストから引き離して滅ぼしてしまう。「つまずき」は重大なのです。

 「つまずき」は対人関係と言っていい。教会は対人関係で苦労する。人の態度や行いに失望して信仰を離れるケースが時折ある。愛のない言葉や配慮のない振る舞いには注意しなければならないと思っています。けれども、これらのことは実はどれほど注意しても起こりうることです。逆に、配慮することばかりに気を付けていては、自由な自然な振る舞いを萎縮させてしまう。愛のない言葉や配慮のない振る舞いには十分に気を付けねばなりませんが、いつでも全面的に行うことは出来ないのです。どんなに注意しても欠けが出てくる。その意味では、教会の交わりは罪赦された罪人の群れであることを互いに自覚し合う以外ないのです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪を赦したまえ」という主の祈りを捧げ合うことが必要な群れであることを自覚し合うことです。

 次に、悔い改めと赦しについてが語られています。人をつまずかせることも罪ですが、罪を犯している兄弟を知っていながら見過ごすのも罪なのです。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。主イエスは「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい」と教えています。教会は、誰一人完全な人、完璧な人はいません。指導者と言えども失敗し、罪を犯します。ですから、互いに戒め合うのです。戒め合うことが群れを成長させていくのです。人に嫌な思いをさせるのは嫌だと、罪を見逃すことは実は愛ではありません。愛は、むしろ戒め合うのです。日本のキリスト教会の形成で、この点が一番失敗しています。戒め合うことがなかなか出来ないのが教会の実情です。そのために、互いに甘え、もたれ合いの構造が出来てしまう。

 改革派教会では「中会」会議があります。この中会とは互いに戒め合う働きを果たすためのものです。中会には監督者がいるのではありません。牧師たちも失敗することがある、罪や過ちを犯すこともある。その時、牧師たちが互いに注意し合うための機構なのです。教会も失敗することがある。牧師と教会役員が衝突してしまうことがある。その時に互いに注意しあい、戒め合うのが中会の持っている最も大きな働きなのです。これは中会の働きだけでなく、各個教会も同じ働きを果たすのです。愛をもって同じ罪を犯す者同士として戒め合うこと、信仰の道筋に戻ることを勧めることが教会の大切な使命であることを自覚してまいりたい。

 主イエスは、互いに戒め合うだけではない。さらに大切なことを教えられました。それは赦すことです。「悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。日本では戒め合うこともむずかしいのですが、よりむずかしいのは赦すことです。日本では「仏の顔も三度まで」と言って、赦すことにも限度があると考えている。これは社会一般の考え方だけでなく、クリスチャンたちもどうも同じようです。

 キリスト者が何か間違いを犯します。何回か同じようなことで失敗すると、牧師も教会員たちも、あの人は信用できない、あの人はだめだとレッテルを貼ってしまう。主イエスは「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われた。無限に赦せと言われたのです。うわべだけの悔い改めだとか、一時的なものだなどと言わないで、悔い改めてきたのであれば、完全に赦すのです。また失敗してもいいではないですか。また悔い改めれば赦すのです。教会は赦し合う共同体なのです。

 私たちも実は繰り返し罪を犯しているのです。私たちの繰り返しの罪と失敗を、毎週の主の日の礼拝において赦していただいて立ち直っていくのです。キリスト者はキリストの赦しの恵みの中で生きている。この赦しの恵みの中に生きている者として、互いにまた赦し合って生きていくのです。