2015年4月19日
聖書=ルカ福音書17章5-10節
ふつつかな僕です
17章は1から10節までが、主イエスの弟子たちに対する教えです。その最初の部分で、教会の中につまずきは避けられないと言われ、種々な問題が生じることを指摘された。その中で罪を放置せずに互いに戒め合い、互いに赦し合って群れを形成すべきことを教えられた。このような信仰共同体の形成は、日本では大変に困難な課題です。これが困難な課題であることを自覚したのは私たちだけでなく、誰よりも先ず「使徒たち」でした。後に教会を全責任をもって担っていくべき使徒たちが、このような信仰共同体を形づくることの困難さを最も深く悟っていたのです。
そこで使徒たちは願います。「わたしどもの信仰を増してください」と。互いに戒め合い、赦し合う信仰共同体を形づくっていくことは人間的な知恵や努力で出来るものではない。何よりも信仰が必要だと、自分たちの信仰の不足を覚え信仰を増し加えてくださるようにと願った。今日の私たちにもよく理解できる。困難なことはよく分かる。その困難を乗り越えていくのは信仰以外ない。信仰の力がなによりも必要だと直感した。そこで「わたしたちの信仰を増してください」と願ったわけです。
主イエスは「からし種1粒ほどの信仰があれば」と言う。「からし種1粒ほどの信仰」とは、どういうことか。「からし種」とは最も小さなものの例えです。砂粒よりも小さい。吹けば飛ぶようなもの。しかし、その小さな種に命が宿っている。大きい、小さいではない。生きた本物の信仰があればいいと言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。不可能が可能になる。桑の木は大地に根を張る。海に根を張ることなど出来ない。どう考えても無理なこと。その無理なことが可能になると言われた。間違えないでほしい。主イエスのこの言葉は例えです。主イエスは別の箇所で「山を海の中に移す」と言われた。同じ例えです。本当に命がある「からし種1粒ほどの信仰」があれば、互いに戒め合い、互いに赦し合う信仰共同体を形成していくことが出来るのだと言われた。
弟子たちは自分たちには信仰が不足していると考えた。しかし、主イエスは信仰は量ではないと教えられた。あなたたちで十分に出来るのだと励ましてくださった。私たちは信仰について誤解してしまう。信仰は決して「一念岩をも通す」と言うような信念の力ではない。信仰とは、自分の無力を悟り、神に信頼することです。それが生きて働く信仰です。神は生きて働く信仰、神に頼る信仰のあるところに神の力と恵みを注いでくださいます。丁度、毛細血管が血液を人体の隅々まで送るように、水道管が無尽蔵に水を各家庭に送り出すように、神の恵みは神に頼る信仰を用いて働くのです。信仰は管のようなものと言っていい。神の力を通す管です。どんなに細くても、そこを通る神の恵みの力は無限です。大事なことは自分の無力を知って神に頼る信頼としての生きた信仰を保ち続けることです。
さらに主イエスは、その生きて働く信仰の姿を1つの例えをもってお語りになられた。信仰は人間の信念のようなものではありませんから、何ら人の功績とはなりません。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」。
僕という自覚が大前提です。今日だったら労働基準法違反になるかもしれない。主イエスの時代、ローマ帝国では奴隷・僕が日常生活を支えていた。この僕が例えの主人公です。僕は畑を耕すか羊を飼うか外での働きをしてきた。しかし、今日の家庭のご主人のように「帰ったぞ、飯にしろ」とは決して言えない。外で働いてくたくたになって帰ってきても、休むことが出来ない。ご主人はさらに「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言う。共働きの家庭の主婦はこの苦労を分かっていただけるのではないか。外で一人前の働きをし、家に帰っても仕事をしなければならない。
この僕は何に例えられているのか。教会の仕え人に例えられている。使徒たちが「信仰を増してください」と願ったことに対する返事としての例えです。教会には役員がいます。使徒から始まり、監督、預言者、教師、長老、執事などいろいろです。そのすべてが仕え人です。指導者ではない。「自分は指導者だ」と思いこんでしまっては困る。キリスト教会では群れの指導者のことを伝統的に「キリストの仕え人・奉仕者」と呼んできた。キリストに仕える故に、キリストの体である教会に仕えるのです。
この仕え人、僕に求められていることは「忠実」です。「自分に命じられたことを果たす」ことです。「命じられたこと」とは、託されていることです。神からそれぞれの僕に委託されている務めがある。それを忠実に果たすことです。キリストが主人としてそれぞれに務めを割り当ててくださっておられます。割り当てられている務めを果たすことがキリストの仕え人の基本です。最後に、主イエスは言われます。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。謙虚であること。これが僕の極意です。「取るに足りない僕」を、口語訳は「ふつつかな僕」と訳した。教会の中で最も警戒しなければならないことは、自分を大きく見せることです。キリストの仕え人は皆キリストの託した務めを果たしているに過ぎません。