2015年5月10日礼拝説教 「終末に備えして」

              2015年5月10日

聖書=ルカ福音書17章22-37節

終末に備えして

 

 ファリサイ派の質問に答えて、主イエスは神の支配としての神の国は見える形ではないが、現に今、ここにあると言われた。主は罪と死の力に打ち勝ち、贖いを完成してくださいました。キリストの福音が宣べ伝えられ、聞いて信じる者が起こる。そこに神の恵みの支配、神の国は来ている。

 

 しかし、神の国は将来において完成するものでもある。主イエスは、このことを弟子たちは理解してほしいと願っています。キリスト教信仰は「主は、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白する終末を待望する信仰です。主イエスは「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る」と言われた。主イエスは「人の子」という言葉を5回語られた。「人の子」には2重の意味がある。1つは、主イエスのご自分を指す自称号「私」で、貧しくなられた人間の姿のイエスです。2つは、ダニエル書7章13、14節で記される人の子の姿です。永遠の神の前に出て「権威、威光、王権を受けた」栄光の人の子です。これはやがて復活し、昇天し、神の右に座すキリストの姿を表す言葉です。

 

 主イエスは、死んで3日目に復活し、天に上げられるご自分を指して「人の子」と言われたのです。主は今、貧しい人の子の姿ですが、やがて天に帰られます。この天から主イエスは「権威、威光、王権を受けた」栄光の人の子として再びおいでになられます。この再びおいでになる時のことを「人の子の日」、「人の子の現れる日」と言われた。その時、主イエスはすべてのものを裁き、神の国を完成されます。それが終末です。

 

 神の国は今、ここにあるという側面と、やがて栄光の主が再び来られて完成するという将来の側面とがある。今、ここにある神の国はまだ未完成です。確かに神の支配はここにある。キリストによる罪の赦しが現実にある。しかしなお、罪に覆われている。すべてが神の御心に従っているとはない。けれど栄光の王である人の子イエスがおいでになって神の国を完成してくださる。この終わりの時の完成を待ち望んで生きるのです。

 

 この終末の時を巡って、主イエスは弟子たちに注意と警告を語られた。第1の注意は「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」です。惑わされるな。右往左往するな。いつの時代であっても、特殊な終末論を唱える人たちが出て来ます。主イエスの時代にもあった。しかし、そういう人たちに乗せられ、その後を追いかけてはならないのです。

 

 第2は、「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう」と言われた。人の子の日、終末について世間の人はほとんど気に留めない。無視し、無関心だと言われた。この無関心の状況を、旧約のノアの時代とロトの時代をもって例えとしているのです。ノアの時代について、旧約聖書は「地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(創世記6:11)と記し、ロトの時代も「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」(創世記13:13)と記す。ところが今、主イエスは暴虐や不法について触れません。「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが」と言われている。ソドムの悪逆非道を語るのではなく「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」と言われた。それ自体悪いことではない日常の生活について語られたのです。

 

 ここに旧約聖書が語る「神の前に堕落し、不法に満ち、邪悪で、暴虐が地に満ちた」と記す事柄の本当の姿、本質が主イエスの口を通して解説されている。「堕落し、不法に満ち、邪悪で、暴虐が地に満ちた」とは、今日の「イスラム国」の人たちのような暴力による暴虐とか悪逆非道のようなことだけでない。むしろ人々が経済的な繁栄の中で日常茶飯の出来事に埋没して、神を忘れ、神に無関心に生きる状況が「神の前に堕落し、不法に満ち、暴虐が地に満ちた」ことなのです。今日、私たちの国はなお物質的繁栄の中にあります。豊かさの中に満足して神を忘れてしまっている。これこそ、この姿こそ、ノアの時代、ロトの時代と同じ「神の前に堕落し、邪悪で、暴虐、不法に満ちていた」と言われる姿なのです。

 

  そのため「ロトの妻のことを思い出しなさい」と、ロトの妻のことが語られているのです。これは、どういうことを語ろうとしておられるのか。主イエスは、終末には大きな分離が起こると言われた。一緒に生活していても、分離が起こると言われたのです。そのため「後ろを振り返るな」と言われた。つまり、日常生活の中に埋没するなと言うことです。娶ったり、嫁いだりすること、食べたり飲んだりすること、それ自体は決して悪いことではありません。私たちの日常生活です。大事なことです。しかし、日常生活に埋没して、そこにだけ関心を集中して生きる者と、目を天に挙げて生きる者とで大きな分離が起こると言われたのです。

 

 今度、私たちの教会は納骨堂を建てました。納骨堂の「墓碑銘」は「我らの国籍は天にあり」です。この言葉は私たちの信仰告白です。私たちの国籍、私たちの帰るべきところは「天の国だ」という表明です。ここから出てきた者として、ここに帰って行く。私たちは地上の日常生活に集中して生きるのではない。主は神と永遠の命とを第1のこととして真剣に生きなさいと勧めておられるのです。家財道具に示されるようなこの世の富やこの世のものに依存した生き方をするのではない。富に未練を残すような生活をするのではない。天に帰るべき者として生きることです。恵みから洩れることがないようにと警告しておられるのです。「御国が来ますように」、「マラナタ(主よ、来たりませ)」との祈りを捧げて生きるのです。