2015年5月24日礼拝説教 「聖霊の導きと伝道」

            2015年5月24日

聖書=使徒言行録16章6-10節

 聖霊の導きと伝道

 

 今は聖霊の時代で、聖霊の圧倒的な働きの中に置かれている。だから、聖霊の導きはクリアーでよく分かるのではないかと思う。中会や大会で伝道計画を立てたら、それが神の導きだ。偉い牧師が「こうだ」と言ったら、それが聖霊の導きと思い込みはしないか。実は聖霊の導きは分かりにくい。祈って計画を立てても、それが聖霊の導きだと一概に言えない。ただ、後に振り返ると、神の不思議な導きの御手があったと分かってくる。

 

 この個所は、福音がアジアからヨーロッパに伝えられていく神の摂理的な導きの個所です。聖霊が降って、初代教会はよちよちと歩み出した。まだ世界宣教など考えられなかった中で、エルサレム教会に迫害が起こり、弟子たちは困惑したと思う。執事を選出して教会の体勢を整えようとした矢先のことです。その時に、ステファノのことで「大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」。成立間もないエルサレム教会にとって大打撃でした。「さあ、これから」と言う時に、散らされた。しかしその結果、シリアのアンティオキアに教会が成立した。これが聖霊の導きです。事実が先行する。神の伝道計画、「エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリア、そして地の果てまで」という道筋は、人の想いを超えた苦難の中でなされていったのです。

 

 このようにして成立したアンティオキア教会からパウロたちが派遣されて、第1回の伝道旅行に出かけました。この伝道旅行は小アジアで、キプロスから、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラと伝道し、幾つかの教会を建てた。第1回伝道旅行は成功した。そこで、パウロは再び小アジアへの伝道を考えた。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」。計画されたことは第1回伝道旅行のおさらいです。前回成功したところに行って、彼らを励まそうという狙いを持った計画です。

 

 彼らは当然、この計画のために祈り、祈って確信して始めた。ところが問題が起こった。「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」。具体的にどういうことかは分からない。前回は問題なく伝道し、教会を建ててきた。今、その道が「聖霊から禁じられた」。やむなく彼らは北に転じて「フリギア・ガラテヤ地方を」通って行った。その間、伝道したでしょう。説教したでしょう。しかし手応えが感じられない。何らかの成果があれば記録される。ところが何の成果もなく閉塞状況と言っていい。そこでパウロたちはアジアの北のビティニア州にまで足を向けようとした。もう黒海の近くです。ところが「イエスの霊がそれを許さなかった」。途方に暮れた。どうしていいのか分からない。福音を伝えながらの旅であったが、人が集まらない、耳を傾けてくれない、反応が全くない。空をつかむような状況ではなかったか。パウロはそういう状況を「聖霊から禁じられた」、「イエスの霊がそれを許さなかった」と受け止めた。

 

 あちらが駄目、こちらも駄目、途方に暮れて西に向きを変えて「ミシア地方を通ってトロアスに下った」。さまよい歩いた末、押しやられて、ここに来た。このトロアスは、アジアとマケドニアを往来する船の通う港町でした。パウロたちは、なぜトロアスに来たのかも十分に悟り得ないまま、泊まることになった。しかし、人間には分からなくても、神の側にはここに導く明確な理由があった。新しい伝道の地に導くためです。「その夜、パウロは幻を見た」。幻の中で一人のマケドニア人が立って「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と「願った」。「願った」は、叫び、懇願です。辞典では「この語は、個人的な、しばしば力を込めた語りかけを表現する場合が圧倒的に多い」と記るす。切望、懇願、叫びです。

 

 パウロは、この幻を見、この懇願・叫びを聴いた時、はっきり確信した。「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召しているのだと」。ここから、パウロの確信に満ちた言葉「わたしたちは」という1人称複数の主語が出てくる。確信に満ちた伝道の記録を表す「わたしたち」です。パウロは伝道者としての確信を回復し、伝道の方向性を確信し、迷うことなく出発した。聖霊の導きを確信したからです。まさに聖霊の導きで東西の文化の境界を打ち破って新しい世界に入っていったのです。

 

 今日、私たちにとり「マケドニア人の叫び」は、何を意味しているか。私たちの教会ももう一度、考え直さねばならない。問題は、福音を必要としている人たちがどこにいるかです。神の言葉の慰めを飢え渇きをもって必要としている人たちは、どこにいるか。精神的にも肉体的にも病んでいる人、孤独で人とのかかわりを求めている人、どう生きていいのか分からずに苦しんでいる人。年間の自殺者が3万人を超えている。このような人たちの呻きの声が今日の「マケドニア人の叫び」なのではないだろうか。

 

 私は、この10数年、社会福祉施設に関わってきた。その経験から、日本の教会の伝道の姿勢と方向性が、改めて問い直されていると感じている。教会の宣教の課題として、ディアコニア・奉仕の業を真剣に受け止めなければならない時代である。「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という叫び声を聞きとることの出来る教会となりたい。病む者、弱い者、苦しむ者の叫び声に耳を傾けることのできる教会となりたい。パウロと同じように「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」と語ることが出来るようになりたい。ディアコニア・奉仕の業を伴った福音の宣教こそが、この時代における教会の責務、神の導きだと確信しています。