2015年9月27日
聖書=ルカ福音書19章45-48節
神殿礼拝の終わりを告げる
神殿に入られた主イエスは、「そこで商売をしていた人々を追い出し始めた」と記されている。主イエスのなさったこの行為は誤解されてきたと言っていい。誤解の1つは、商売人を追放したという理解です。神社仏閣へ行くと門前に屋台などの出店が出て、うるさく客引きが来る。そういう光景を思い浮かべて、主イエスは「聖なる場所で商売するんじゃない」と追い出したという誤解です。2つは、商売人は当然、神殿当局者に賄賂を払っている。その神殿当局者の堕落・腐敗に対して、主イエスが正義感に駆られて大掃除したというのは大きな誤解です。
神殿は大勢の人でごったがえしていた。この人たちを相手に商売をしていた人たちがいた。神殿礼拝の基本は動物犠牲を献げることです。この時代の礼拝は今日の教会の礼拝と全く違う。礼拝のために捧げ物としての犠牲の動物が必要ですが、羊や子牛、鳩などを遠く自宅から連れてくるのは困難です。犠牲として献げることの出来るのは傷のない動物であることが律法で定められていた。家を出る時には傷なき状態であっても、長い道中で傷がつかないと誰も保証できない。傷が付くと献げられない。そこで犠牲を献げる人の便宜のため検査済みの動物が売られていたのです。
両替屋も神殿礼拝には不可欠でした。神殿で捧げることが許されていたのは「シェケル」というユダヤ古来の貨幣です。ところが礼拝に集まってくる人はユダヤだけでなく、世界の各地から来ています。ユダヤ人も神を敬う異邦人も少なくありません。彼らはそれぞれ自国の通貨を持って来ます。ローマの、ギリシャの、メソポタミア地方のお金もあります。世界中から集まってくる人にとって両替屋がなければ献金も献げられない。
動物を売る人や両替人がいないと神殿礼拝そのものが成立しない。そこで大祭司の許可を得て商売が許されていた。旧約聖書でも「…主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち…主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい」(申命記14:24~26)と記されていた。
では、なぜ、主イエスはこの人々を追い払ったのでしょうか。柔和な主イエスのお姿はどこにいってしまったのでしょうか。ヨハネ福音書では、イエスはこの時「縄のムチ」を造って彼らを追い出したと記しています。皮の鞭や木の棒などと違い、人を傷つけません。主イエスがなさったことは、人を傷つけ、人を懲らしめるための行為ではなかったのです。
主イエスは象徴的な行為をしておられるのです。預言は言葉によって語られます。同時に、神は預言者の行い・行為によって将来起こるべきことをお示しになります。行い・行為によって将来の出来事を示すのが象徴行為です。イザヤがやがて捕囚の民となる事が必ず起こることを示すために3年の間「裸、裸足で歩いた」。エレミヤも神の恐るべき裁きが起こることを示すため「陶器師の器を砕いた」。これらが象徴行為と言われます。聖書には象徴的行為はたくさん記されています。主イエスも、やがてまもなく必ず起こるべき事柄を「象徴的行為」をもって示しておられるのです。
神殿は神に犠牲の動物を献げるための場所でした。公に犯した罪、密かに個人的に犯した罪、家族の罪、国家・民族としての罪など、いろいろな罪の償い・贖いをするところです。罪の償い・贖いのために、身代わりとしての動物の血が流されるのです。「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」(ヘブライ9:22)と記されている通りです。旧約の礼拝は、この動物犠牲を繰り返し献げることによってなされたのです。
けれど、このような動物の血が罪を本当に償う力があるでしょうか。決してそうではありません。旧約の動物犠牲は、神の御子の身代わりによる代償的贖罪という恵みの出来事の意味を教えるためのものでした。ハイデルベルク信仰問答問19で「律法による犠牲や他の儀式によって象り、ご自身の愛する御子によってついに成就なさいました」と記します。罪人の罪を本当に償うことの出来るのは、罪なき神の子イエス・キリストの血による以外ないのです。キリストが私たち罪人に代わって十字架で血を流して下さる以上、もはや神殿で繰り返される動物犠牲は不用になります。主イエスが神殿に入ってすぐになさったことは、神殿で繰り返される全ての動物犠牲が不用になる時が来ることを象徴的な行為で表されたのです。
さらに主イエスは、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われた。主は神殿で動物を捧げる礼拝を廃止されましたが、礼拝そのものを廃止されたのではない。神殿・礼拝の場は全く新しい意味を持つ。祈りの家です。元々、礼拝は神との交わり、祈りなのです。祈りと言うと個人的な祈りを考え勝ちですが、神の民全体が献げる礼拝が祈りです。宗教改革者カルヴァンはカトリック教会のミサ礼拝に代わって、宗教改革の教会のために新しい礼拝式順を作り、それを「祈りの式」と呼びました。神の民が共に献げる礼拝こそ神に献げる祈りです。祈りとしての礼拝、交わりとしての礼拝が、キリストの贖いの犠牲を中心にして生まれたのです。
神との交わりを阻害しているのが人間の罪であり、その罪を取り除くために旧約時代は動物犠牲が必要でした。しかし、キリストによる身代わりの犠牲が献げられて、今日、私たちの罪は完全に償われています。キリストにあって、私たちは祈りを捧げて自由に神と交わりをすることが出来る。新約の教会の礼拝は、動物犠牲を捧げる礼拝ではなく、キリストの贖いに基づいてなされる神との交わりとしての祈りの礼拝式なのです。祈りは礼拝の一部というだけでなく、礼拝そのものが祈りであるということです。祈りこそ神との交わりです。これこそ、神殿の存在が指し示していたまことの礼拝です。私たちは今、この新しい祈りの家に集っているのです。