2015年10月11日
聖書=ローマ書12章1-8節
教会を建てるために
本日は「浜松教会一泊研修会」です。その開会礼拝という意味を持っています。今回の研修会では「教会設立」、特に牧師招聘について教会員全員が理解を共にしてまいりたい。困難はあるが、やがてふさわしい牧師が迎えられ「教会設立」となるでしょう。しかし、気にかかることが多少ある。新しい牧師を迎えて、この浜松教会はどう変わるだろうか。牧師を迎えると、全て牧師任せになってしまう傾向がある。無牧の時には全部教会員がしていた。教会員がする以外ない。週報作成、会堂内外の清掃、会堂の補修、病者の訪問、伝道集会などの設定、日曜学校の運営、何から何までどんなに拙くても教会員が分担してやっていた。ところが牧師が赴任すると、全てが牧師の務めとなってしまう。今まで自分たちでやっていたことが、牧師を迎えると牧師の責任だ、牧師の務めだとなってしまう。「これはおかしいぞ」と以前から考えてきた。
「日本の教会には信徒という凍結資産がある」と言われてきた。戦後直ぐ宣教師として来日したエミール・ブルンナーが語った言葉です。欧米の教会と見比べて日本では信徒の活動が不活発と感じ取られたからです。皮肉とも受け止められる言葉です。教派を問わずです。無牧の時はまさに信徒によって教会の全ての営みが支えられている。信徒が凍結していない。すべてを信徒が担っている。ところが不思議なことに牧師が赴任すると、信徒は再び凍結資産に戻ってしまう。どうしたことだろう。これには牧師の責任もある。牧師が何でもしてしまう。牧師のサービス過剰です。信徒に委ねることをしない牧師が悪い。それだけのことではない。信徒がピタッと止めてしまう。牧師への遠慮もあるが「それは先生の務めだ」と押しつけてしまう。皆でやっていた奉仕も、誰も来なくなればやむを得ず牧師とその家族がやらざるを得ない。そして、それが常態になってしまう。
私の知る限りのことですが、韓国の教会と大きく違うところです。長老や執事になると、牧師以上に自分の教会のために献身する。牧師は移動します。しかし、長老や執事は移動しないから、教会のあらゆることを責任を持って担っていこうとする。自分の生活を削ってでも教会の経済を支えようとする。これは教会の規則とか定めというものではなく、基本的に教会員の気風、信徒の気概と言ってよい。牧師は牧師としての、役員は役員としての、会員は会員としての、気風、気概、あり方が身についている。新しく牧師を迎えるに当たって、私たちはどういう気概を持って、どういう姿勢で迎えようとしているのか。このことをしっかりさせてからでないと、新しい牧師を迎えてはならないと、私は感じています。
信仰者の生活の基本は「献身」です。キリストの贖いの恵みに対する感謝の供え物として「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と勧められています。「献身」がキリストを信じる者の基本です。牧師、伝道者だけが「献身者」ではなく、キリストを信じる全ての信徒のあり方が「献身」なのです。このことを確認しあうところから牧師招聘と教会設立は始まるのです。教会員が献身的であるところに、献身者としての牧師が赴任できるのです。キリストを信じて生きる私たちは決して孤立して生きるのではなく、「キリストにある1つの体」に結ばれています。人は信仰が与えられてキリストに結ばれ、キリストの体の枝枝とされている。互いに支え合って生きるのです。群れ同士が支え合うと共に、迎える牧師をも支える決意をもたねばならない。牧師を支えよう、支え合っていこうという気風がないところでは、牧師も十分な働きは出来ません。キリストの体としてで互いに結ばれて、支え合って歩んでいくのです。
このことを踏まえてパウロは「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」と言います。いろいろな賜物が記されています。神の言葉を語る預言の賜物、奉仕の賜物、教える賜物、勧める賜物、施しの賜物、指導する賜物、慈善の賜物、このような異なった賜物を「わたしたちは持っている」というのがパウロの確信です。
この私たちが持っている賜物の用い方が記されています。第1は、「信仰に応じて」です。「応じて」と訳されたのは「アナロギアン」という言葉です。「正しく比例して」と言う意味の言葉です。この程度の信仰だから、この程度の奉仕で良い、というのではない。主イエスが愛して下さる、その主の愛に応え自らも主を愛することに生きる。主イエスが愛してくださった。その愛に正しく比例して生きること。これが「信仰に応じて」です。教会は、主イエスを愛する人たちによって建てられていくのです。主イエスを愛する愛のないところでは教会は建ちません。「あなたは、わたしを愛するか」。この問いに応えるところで賜物が用いられていくのです。
第2は、「惜しまず」です。施しや慈善の奉仕をする時、惜しいような思いに取り付かれることがある。欲しいものを買う時には、少々高くても勢いよく買ってしまう。しかし、施しや慈善の時には、出し惜しみをしてしまう。それはお金や賜物を自分のものだと思い込んでいるからです。全ての賜物は管理を私たちに委ねられているに過ぎない、神のものなのだということを忘れているのです。「惜しまず」とは、施しや慈善だけでなく、全ての賜物に当てはまるのです。素直に積極的に献げていきたい。
第3は、「快く」です。「快く」とは大胆に訳すと「愉快に」「朗らかに」となります。「愉快に、朗らかに」施せ、奉仕しなさい、と言うのです。奉仕に生きると言うと、世界中の苦しみを背負って生きるようなにが虫を噛み潰した顔をして生きることと思われてしまう。しかし、パウロは「愉快に」「朗らかに」しなさいと勧めます。神の愛を語り、キリストにある慰めを語る。愛の現れとしての施しや慈善をする。奉仕に励む。このような時に、楽しく、愉快に、朗らかに、惜しむことなく、させていただきたいと願っています。こうして教会は生き生きと建て上げられていくのです。