五島列島旅行記6(隠れキリシタンと五島列島の近現代史)

 今回の旅行では、ツアーやバスなどで現地の方々のお話を直接聞く機会が何度かありました。また、現地の色んな場所を散策することで、その地域性や環境から見えてきたこともたくさんありました。これらの伺ったことと感じたことを記します。

 歴史の専門家ではないため、史実とは異なる内容があるかもしれませんが、現地で伺ったことに基づいて記します。

 

1.五島列島の隠れキリシタンの歴史(江戸時代)

 五島列島に最初の隠れキリシタンが住み始めたのは、江戸時代末期の1800年ころでした。当時、五島列島を治めていた五島藩は度重なる飢饉や出生後生存率の低さから、人口の減少に悩まされていました。そこで、当時人口が石高に対して比較的多かった対岸の大村半島の大村藩に「五島列島に土地を分け与えるから移住しませんか?」という、今で言う「地方移住」の案内を出しました。その頃の大村藩としては人口が多すぎて耕す土地に困っていたこと、食糧不足などの問題から、3000人もの農民が移住を希望し五島列島に住み始めました。

 しかし、他の地域では出生率が低く、人口減少に悩まされているほどだったのに、なぜ大村藩だけが人口増加していたのか? それを知るためには、当時の農民・漁民の経済と慣習を理解する必要があります。当時の一般的な貧しい家庭においては、土地や食料が不足している場合、口減らしとして子供が殺されたり売られたりすることが横行していました。つまり、飢饉が訪れると大人の餓死者も出るが、その前にまず子供が殺されてしまう。(江戸時代における子殺しは、惨いことというよりは、狭い島国で争いを起こさずに大半の大人たちが文化的な生活を維持するために必要なシステムだと一般に理解されていたのではないでしょうか?)それに対し、大村藩の民衆たちは、いくら自分たちが貧しくても決して子供を殺さなかったために、人口が増えすぎるという状況になっていたそうです。その彼らの根底にあったのは、キリスト教信仰でした。彼らは隠れキリシタンだったのです。

 もちろん、信仰が他の誰かに知られれば、拷問と処刑は免れないため、隠れキリシタンは完全に信仰を隠しています。見た目や外での行動はすべて他の民衆と区別がつきません。踏み絵も踏みますし、神社や仏教行事にも参加します。しかし、その様な厳しい弾圧と迫害と監視の中にあっても、決して家の外には聞こえない様な口の中だけでもごもごと唱える様な祈りと賛美を、それもグレゴリオ暦に従ったクリスマスやイースターなどの教会歴に基づいたものを、口伝えで子供に伝えていた方々だったのです。

 五島列島への移住した人たちに与えられたのは、耕しやすく港を作りやすい土地はすでに元からの住民がいるため、山間の狭い耕しにくい土地や、波が荒く港を作りにくい、漁業に向かない海のそばばかりでした。それでも、厳しい弾圧から逃れられる、自分たちの土地が手に入る喜びから、一生懸命開墾したそうです。

 そのため、今でもわずかにある平野部は仏教徒が、住みにくい山間部や崖のような斜面、狭い峠を越えた狭い湾のそばにはクリスチャンがという風に集落が分かれていました。

 

2.キリシタン弾圧時代(明治時代最初期)

 1865年(慶応元年)に長崎浦上での信徒発見以降、五島でもキリシタンたちはは次々と信仰を表明した。しかし、キリスト教は禁教のままであったために、この信者たちは投獄され拷問に掛けられるという弾圧にあった。五島列島でも久賀島では、6坪の牢屋に約200人のキリシタンが8ヶ月も収容され、40名以上の方々が亡くなりました。

 この他にも多くの悲劇的な弾圧が長崎を中心に起こり、それらが神父たちによってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けるようになり、1873年(明治6年)になって、ようやく明治政府はキリスト教の禁教を解きました。

 

3.隠れキリシタンからカトリック信者となった後の歴史(明治初期~昭和)

 この時代は一言で言うと、五島列島における「会堂建築期」です。

 18732月、キリシタン禁制の高札が撤去され、信仰が黙認されることになると、澤二郎らがパリ外国宣教会フレノ神父を長崎へ迎えに行き、ついに念願の神父来島が叶います。フレノ神父の堂崎での野外ミサには、1000人を超える下五島各地のカトリック信徒が船で集まったといわれています。以降、宣教師と伝道士らの協力によって、潜伏キリシタンのカトリックへの復帰が進められていくのです。1877年からフレノ神父やマルマン神父たちは長崎から五島列島の巡回司牧に訪れます。1880年からは五島列島を2地区に分け、下五島をマルマン神父、上五島をブレル神父が担当し、常駐して巡回司牧に努めます。1888年堂崎に着任したペルー神父は、1893年から五島の主管者(司教代理)に任命され、全五島を巡回して司牧宣教に尽くします。このころから、1879年の大泊教会の仮御堂にはじまり、1880年堂崎に小聖堂(現教会は1907年建立され県指定有形文化財)、1881年には浜脇教会(現在旧五輪教会堂として1931年に移築され国指定重要文化財)、1906年江上天主堂(現教会は1918年に建立され国指定重要文化財)、上五島地区では1878年青砂ヶ浦教会(現教会は1910年に建立され国指定重要文化財)、1882年江袋教会(現教会は火災による焼損を2010年、創建時の姿に復元修復され県指定有形文化財)、1887年頭ヶ島教会(現教会は1917年に建立され国指定重要文化財)など、その他各集落に教会堂は建設されていき、潜伏キリシタンのひそかな祈りから、カトリック復帰によって、祈りが目に見えるものになっていきます。その前後で、日本は数々の戦争を経験し大変な時代ですが、教会を建造するために、生活の厳しい中でも、信者によって多くの献金が集まりました。さらに、宣教師の本国の私財や外国の信仰を同じくする方々からの善意の寄付が集まってきました。宣教師の設計や指導の下、信者の労働奉仕や鉄川与助など日本人大工の施工によって多くの教会が建てられていくのです。五島全域に現在50、下五島には21の教会があります。過疎化の進む下五島にも、かつて28の教会がありました。五島のカトリック信徒の人口は、2013年には8,995人で、五島総人口の約14%を占め、その中で五島市には3,275人と、五島市の総人口の8.3%を占めます。ちなみに日本全国でのカトリック信徒の人口割合は0.3%です。データのように五島列島は、日本の中でもカトリック信徒人口割合が最も高い地域です。このように、五島列島には、250年にも及ぶ禁教での迫害の歴史をこえ、真摯に信仰を伝え続けたキリシタンの歴史が最も深く刻まれています。現代においても真摯な信仰が伝えられ、世界で唯一無二となる歴史を刻み続けているのです。

(3.のみ、http://www.city.goto.nagasaki.jp/sekaiisan/handbook/pdf/07.pdf より抜粋しました。)

 

4.1980年代から現在の状況

 1980年代以降、五島列島は日本国内の他の離島や僻地と同様に、若者の島外への流出による過疎が顕著になってきました。この主な原因は、五島列島の産業である水産業の衰退です。魏志倭人伝の時代から網を入れるだけで破れるほどの魚が獲れた豊かな海として知られ、あごと呼ばれるトビウオや小女子(こうなご)漁だけで教会が建つほどだったそうです。また、真珠などの養殖も盛んで、入り組んだ内海には養殖いかだがいっぱいだったそうです。しかし、1980年代以降、五島列島周辺での漁獲量が激減し、養殖も温度や環境の変動によって出来なくなり、また、冷凍冷蔵技術の発展によって水産加工業も長崎本土に移っていったために、水産業全体が急激に衰退しました。特に上五島は、平野部がまったくないと言って良いほど少なく、ほぼ水産業によって支えられてきた島だったために、この衰退は島にとって致命的だったようです。

 そこで石油公団や三菱石油が中心となって、上五島に石油備蓄基地が建設されることになりました。最大貯蔵能力は88万kl×5隻と膨大な量で2015年の日本全体の平均消費量の約7日分に相当します。当時としては他に類を見ない大規模な事業であったため、建設当時は島全体が非常に賑わったそうですが、事業が維持管理だけになった今は美しい景色に白亜の巨体が浮いているだけで、と苦々しげに語られている様子が印象的でした。

 「これからは一時的な巨大事業ではなく、観光業で五島を建て直ししていく」という方向性は行政も島民も一致しています。そのためにも、五島列島の世界遺産登録は本当に切実な願いです。ただ、島のキリシタンが心を込めて築いてきた歴史ある美しい教会たちをハコモノとして扱っている様に感じる行政の対応と、弾圧や差別をしてきた歴史を観光の柱にするということに後ろめたさを感じている島民の方々の複雑な思いも同時に感じました。

 地元の方々と話をした際、「五島はとても良いところですね」と言うと「じゃあ引っ越してきて」と真顔で言われて困ったことがありました。過疎を通り越して限界集落になりつつある五島の人たちにとって、今回の世界遺産登録が島の財産を切り売りするだけで終わることの無いように、水産業と観光業を永続できる様な仕組みと想いが本当に必要だなぁと感じました。