2015年10月25日
聖書=ルカ福音書20章9-19節
捨てた石が生きる
ここには2つのことが記されています。1つは「ぶどう園乗っ取りの物語」、2つは「隅の親石」についてです。別々の物語ではなく、一度捨てられた石が隅の親石となったことが分かるための例えです。囲碁では「もうこの石は死んだなあ」と思って捨て石にすることがある。ところが、しばらくすると捨てたはずの石が生き返って盤面を一変させることがある。役に立たないと見捨てた石が最も大切な土台石になっていたというお話です。
主イエスは「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」と語ります。ぶどう園の主人は神です。ぶどう園は神の国です。神の国とは神の恵みによって神の祝福の中で生きることです。管理を任された農夫は神の民イスラエルです。主人が収穫の分け前を受けとろうと何度も送ってくる僕は旧約預言者たちと言って良い。最後に送られてくる「わたしの愛する息子」とはキリストのことです。ぶどう園の管理を託されたユダヤの民が神の信頼と委託に応えず、逆に反逆し、最後に神のみ子キリストさえ殺してしまうという神の民の罪を鋭く突いている例えです。
この例え話はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書に共通に記されている。マタイ福音書では神のこまやかな愛情が描かれている。ぶどう園の主人は丹精込めてぶどう園を造った。荒れた土地を耕し、石を除き、ぶどうの木を植え、水を注ぎ、雑草を除き、実が実るまでに育てた。ぶどう園を守るため垣根を設け、物見やぐらも作り、酒ぶねも作った。農夫たちが生活できるように至れりつくせりの施設を作った。マタイ福音書では神の民イスラエルに対する神の恵み深さと愛情が示されています。ルカ福音書では神の忍耐が語られている。収穫の分け前を受け取ろうとして、主人は僕たちを送る。しかし農夫たちは侮辱し、追い返し、殺してしまう。にもかかわらず主人は忍耐を続けます。もし、私が主人の立場だったら、一人二人が追い返されてきたら、「おのれ、人を馬鹿にするな」と実力行使になったろう。ところがその後も主人は「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と言って遣わすのです。ルカ福音書には、まことに底抜けに忍耐深い神の姿が描かれているのです。
神の愛情と忍耐に対照的なのが農夫たちの反逆・反抗です。収穫の分け前を払わないことは主人を主人として認めない反逆です。主人が愛する息子を派遣すると、農夫たちは相談して「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」。クーデターが起こった。このように語られた後で、主イエスは「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」と問いかけられた。そして、今度は「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と言われます。
聞いていた人々は「そんなことがあってはなりません」と言う。ご主人の恩を仇で返すようなことはあってはならない。そうなれば当然、ご主人の怒りを買い、滅ぼされてしまうと言う意味であったでしょう。すると主イエスは「隅の親石」の物語を語られた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった』」。「そんなことがあってはなりません」と言う人たちに対して、主イエスはまさに今、そういうことが起こっている、と言われたのです。ぶどう園の乗っ取りが今まさに行われている。それだけではない。この乗っ取りによって「ぶどう園をほかの人たちに与える」ことが、これから起こるのだ、いや今、起こりつつあると言われたのです。
農夫たちはぶどう園を自分のものと思い違いをし、主人の恵み深さを忘れた。しかし、ぶどう園の主人は生きておられる神です。神は罪を罪として裁かれるお方です。神の民の指導者は大きな見立て違いをしていた。僕たちを追い返せば利益を独占できると考えた。跡取り息子を殺せばぶどう園は自分たちのものに出来ると考えた。しかし、これは決定的な見立てのミス、判断の誤りだと、主イエスは言われたのです。イエスに手を下そうとした律法学者たちや祭司長たち、彼らこそ神の民の指導者です。この人たちによってイエスは見捨てられた。捨てられた石なのです。
この例え話の最も大切な点は、このぶどう園に表されている神の国、神の祝福が、他の人たちに与えられることです。これが「隅の親石の物語」です。「隅の親石」とは英語で「コーナーストーン」と訳されます。建築を行う際に置かれる最も大切な角を決める重要な礎石のことです。ユダヤの指導者によって捨てられた石が新しい建物、新しい神の民、新しいイスラエルの最も大切な「コーナーストーン」となった。ぶどう園で示されていることは神の与えて下さる救いの恵みだけでなく、神の祝福の全体です。神の祝福の中で生きることです。キリストによる罪の赦し、神と共に生きること、神の祝福の全てをいただくことです。この神の救済の恵みが最終的に誰に与えられるかということが、この例え話の焦点なのです。
「他の人たちに与えられる」と、主イエスは言われます。異邦人と言われて来た人たち、契約の外にあると言われてた人たちです。ここからぶどう園の担い手が大きく代わる。捨てられた石が生き返る物語となっていくのです。捨てられた石こそ、新しい神の国、新しいぶどう園の礎石です。死んでよみがえった石、復活のキリストです。しかし、この石は試みの石でもある。この石の上に落ちるとは「いらない」と言って捨て去ることです。古いぶどう園の担い手は、この石の上に落ちて打ち砕かれてしまった。キリストを受け入れる人にだけぶどう園が与えられる。キリストを人生の土台として生きる人に神の祝福として新しいぶどう園が委ねられるのです。神の国は「血筋によってでも、人の欲によってでも」得られません。神の国は神を信じる人に与えられます。キリストを信じるのに遅すぎることはありません。キリストを受け入れ、神に従う者となってください。