2015年11月22日
聖書=ルカ福音書20章45-47節
何を生きがいとするのか
主イエスは、弟子としての生き方をここで2つのお手本をもって語られた。1つはこうあってはならないという否定的な面、それが「律法学者に気をつけなさい」です。2つは、このように生きなさいという積極的な面、それが次の「やもめの献金」によって教えられた。明らかに1つのことの裏表として対照的に語られています。主イエスはまず「律法学者に気をつけなさい」と言われた。「律法学者に」と言われた時、それはファリサイ派と同じです。マタイ福音書では「律法学者とファリサイ派の人々」と一括りで語られている。なぜ、主イエスはこのように言われたのか。キリストの弟子たち、その指導者たちへの警告として語られたのです。主はここで私たちの信仰生活、生き方への警告として語っておられるのです。
主イエスは「彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」と言われます。「長い衣」とは、律法学者であることを示す特有の着物のことで、ステイタス・シンボルと言っていい。長い衣を着ていると人々は尊敬のまなざしで頭を下げる。今日の僧侶の姿と言っていい。「広場で挨拶される」。ユダヤの町々は町囲みという外壁に囲まれていた。その町の門を入ったところが広場になっている。そこでは物を売ったり買ったりの取引が行われ、訴訟が行われ、人を雇ったりする市民生活の場でした。律法学者がその服装をして町の広場に行くと、人々から先生と呼ばれて挨拶されます。もし、挨拶をしない人がいると、なんて失礼な奴だと怒りだします。
「会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」。会堂とはシナゴーグのことです。安息日の礼拝では、先生こちらにと上席を案内され、そこにどっかりと座ります。シナゴーグには奥の方に聖書の巻物を収めた書庫がある。会堂の上席とは、この巻物を収めた書庫に近い席です。つまり、一般の会衆と向かい合う席です。結婚式の宴会などに出ると、これまた主賓に近い上座に案内されます。彼らは長い習慣で、これが当然だと思い込んでいます。違った待遇を受けると「とんでもないことだ」と怒りだした。
律法を教える学者ですから、祈りを依頼されることもよくある。すると「長い祈り」をします。言葉を飾り、重々しく、敬虔そうな祈りを捧げます。主イエスは、このように律法学者・ファリサイ派の人たちの日常の姿を描き出して、「これは見せかけだ」と言われた。心の奥底まで見抜かれる主イエスの目に映った律法学者の生活は見せかけの信仰生活です。立派そうに、敬虔そうに映る信仰生活は、実は人に見せるためのものです。人目を意識して、人の目にどう映るかということに気を配って生きる生活だ、これは偽善だと言われたのです。
さらに、主イエスは言われます。「彼らはやもめの家を食い物にしている」と。きつい言葉です。この時代、やもめと孤児は社会的弱者の代表でした。守ってくれる人のいない人たちです。やもめは男性中心の社会で守ってくれる夫を失った人、孤児は守ってくれる親がいない。彼らの後ろ盾は神しかいない。そこで旧約律法は彼らを保護することを命じている。出エジプト記22:20-22「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」。
ところが律法学者は、この人たちの弱い立場につけ込んで利益を上げていた。夫の残した幾ばくかの財産はやもめと残された子どもにとってかけがえのないものでした。その相続がどうなるかは死活問題です。遺産相続などのもめ事の裁定は律法学者の役割です。この機会に乗じて貧しい者たちからかすめ取っていた。社会的な弱者を食い物にしていた。主イエスはその実体をしっかり見抜いておられます。律法を最もよく知っていながら、律法の最も大切なあわれみの規定を無視している。これは神をないがしろにすることです。主イエスは「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」、神が裁かれると言われたのです。
このように見てくると、律法学者はとんでもない奴らだ、と思うかもしれません。そして、自分たちはユダヤ教ではない。この話は自分たちとは何の関係ないものだと片付けることも出来るでしょう。しかし、主イエスはそれは違うと言われるのです。あなたがたキリストの弟子たちも、使徒と呼ばれることになる教会の指導者たちも、これら律法学者と決して無関係ではないと言われているのです。あなたがたも律法学者・ファリサイ派になり得るのだと言われているのです。
信仰生活は、神を目当てに生きる生活です。神は目に見えません。マタイ福音書6章で、主イエスは神を「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言われました。信仰生活は「隠れたことを見ておられるあなたの父」を自覚して、その神の前で生きることです。ところが、いつの間にか人を目当てにして、人目にどう映るかということが基準になってしまっている。神を畏れて、神の目を意識した生活から外れてしまう。これはキリストの弟子たちの中にも生じる危険性です。
キリストの弟子の生き方は、へりくだりをもって歩むことです。へりくだりとは、人間的な徳目ではありません。キリストのへりくだりに学ぶことです。神の御子であるお方がへりくだって人となられたのがキリストの降誕とご生涯です。このキリストのへりくだりに、いつも目を留めていかねばならない。キリストから目を離してはならない。宗教改革者カルヴァンは、「コーラム・ディオ」という言葉を口癖にしていました。「主の前で」という意味の言葉です。信仰生活は、人目を意識した生き方ではなく、キリストから目を離すことなく、キリストの前で、キリストの目を意識して歩むのです。そこでだけ人の目を意識することから逃れられるのです。