2015年12月13日礼拝説教 「 イエス・キリストの系図」

        2015年12月13日

アドベント第3

聖書=マタイ福音書1章1-17節

イエス・キリストの系図

 

 初めて聖書を手にした人は長い人名のリストにうんざりする。無味乾燥と言っていい。飛ばしてしまう。では本当に無味乾燥なのか。何の意味もないのか。作家は小説を書き始めるとき、最初の一行に命を削ると言われます。これは福音書も同じです。多くの人が読んで救いの恵みを得てほしい。その書き始めは作家と同じように命を削る努力をしている。しかし、日本という状況の中では、そのマタイの意図が分かりにくくなっているというだけのことです。この系図は決して無意味なものではありません。

 

 第1に救い主であるイエスは罪人の歴史の只中においでになったということです。罪は抽象的な概念ではありません。罪の背後には多くの悲しみと痛みを持つ。罪には痛みが伴うことを忘れてはならない。問題を抱える幾人かを上げてみよう。先ずユダとタマルです。この二人の名前で表されていることは嫁と義理の父親との姦淫です。次にダビデとウリヤの妻です。ダビデが大切な部下を戦死させてその妻を奪ってしまった出来事がこの二人の名で語られている。さらにマナセです。父ヒゼキヤは敬虔な人でしたが、息子のマナセは悪しき王、残虐な人でした。父の壊した偶像を作り直し、神殿の中にバアルやアシュタルトの像を置いて拝んだ。幼児を火に焼いてバアルに供え、占いに熱中し、その悪行は数え切れない。マナセ王の悪行のために南王国ユダは滅びざるを得なかったと言われるほどです。この人たちの罪によってイスラエルは大きな痛手を受けた。痛みを覚えることなくして、これらの名を挙げることはできない。

 

 罪は、この人たちだけのものではありません。信仰の父と言われるアブラハムも多くの罪を犯した。ヤコブも実に多くの罪を犯し悲しみを担った。この系図につながる人はだれ一人義人と言える人はいない。そして、主イエスはこの罪人の系図を引き受けてお生まれになられた。主イエスは決してこれら罪を犯した人たちを排除なさらずに、ご自分の兄弟と呼ばれた。罪に苦しみ、悲しむ人間の歴史を背負って生まれてこられたお方なのです。

 

 次に、この系図の中に4人の女性が登場します。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。問題を抱えた女性というよりも、ルツのように異邦人の女性であることです。タマルはカナン人、ラハブはエリコの女、ルツはモアブ人、ウリヤの妻はヘト人です。この系図は装飾系図と言われ、7の倍数である14代、14代で分かるように整理されている。省略されている人がたくさんいる。その中で隠しておきたい、省略したいと思うような女性たちがあえて書き加えられている。共通しているのは非ユダヤ人、異邦の女性です。明らかに4人の異邦人が混じっているのだという指摘です。

 

 この系図を記した福音書記者マタイの言いたいことは、神の救いのご計画は決してユダヤ人だけのものではない。このように異邦人をも包み込みながら進んできた。異邦の女性の受けた痛みと苦しみ、悲しみによって支えられ、包摂されて、神の救いの計画は進んできたのだ、と。彼らが加わってキリストの救いの恵みが存在しているのだと語ろうとしている。マタイは意図的にこの事実を系図を通して明らかにしようとしている。マタイ福音書は一般的にはユダヤ人に向けた福音書と言われている。そのため、旧約歴史の圧縮・旧約を受け止める連結機として一番最初に系図を置いた。ところが、その冒頭からマタイの語る福音は異邦人世界への開かれた姿勢を持っているのです。福音の世界性がその冒頭から表明されている。

 

 最後に指摘するのは、契約に対する神の熱心と真実です。神はアブラハムと契約を結ばれた。創世記17章に記されている恵みの契約です。この契約で2つのことが語られた。1つは契約はアブラハムとアブラハムの子孫と結ばれたこと。2つは契約の内容が「わたしは、あなたとあなたの子孫の神となること。わたしは彼らの神となる」ことです。「彼らの神となる」、これが救いです。「神となる」とは、相手を神との交わりの中に回復することです。アブラハムも罪人、ダビデも罪人です。この系図に記されている人は皆、罪のゆえに、神に背き、神から離れ、神から逃亡した。人間の営みは神からの逃亡の歴史です。しかし、神は逃亡する人間を繰り返して神との交わりの関係に回復すると言われた。どんなに人間が神から逃亡しても、わたしはその人の神となるという神の決意です。

 

 最初の14代はアブラハムから始まりダビデまでで、神の恵みの中への召しの時代です。アブラハムに与えられた恵みの契約を信じて、イスラエルの人々は出エジプトし、カナンの地に王国を建てた。この時期の頂点に立つ人物がダビデです。その長い歴史を貫いているのがアブラハムと結ばれた契約です。次の14代は、その契約を忘れて神に裁かれ没落した歴史です。ソロモンは栄華を極めますが、その栄華の中に没落の種が入っていた。王国は2つに分裂し、2つの王国は次々と滅びて捕囚となる。神の民であることを忘れ偶像を拝み、契約を忘れ去ってしまった。第3の時期は回復と救済の歴史です。捕囚のただ中で、神は預言者たちを通して回復を約束してくださり、イスラエルの人々は解放されてエルサレムに戻り神殿を再建した。これは人々が信仰を回復したというよりも、神がアブラハムに約束された契約に真実であったからです。この回復の締め括りとしてキリストがこられたのです。バビロンからの解放という回復の恵みがイエス・キリストによって最終的に完成したというのが、この系図の示すところです。キリストは恵みの契約を完成するため、この世に来られたのです。

 

 この系図が示す最も大切なことは、神の真実と熱心です。神がアブラハムに契約を与えられてからキリスト誕生までおよそ2000年が過ぎています。ところが神はお忘れにならなかった。マリアはこう歌います。「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(ルカ福音書1:54,55)。これがクリスマスの出来事です。